星座で801ログ保管庫出張所

地球最後の…13

 四階から五階に移動し、最初に男が居た家に入った。男は牡牛に、押入れに布団があることや、引き出しに男物の服があることを教えてくれた。牡牛は服を着替えると、ふすまから布団を取り出して敷いた。そこに横たわり、体をやすめるまでのあいだ、男はただ指先と言葉で指示をするだけで、牡牛の歩みを助けることも、着替えを助けることも、寝具を整える手伝いも、いっさいしてこなかった。牡牛に近づき触れることを恐れているようだった。
 布団の中の牡牛に向けて、男はぽつぽつと語り始めた。
「……いろんなものを見た。いろんなことがあった。おれは数人の仲間と居たんだ。覚えているだろう? あの日、体育館の前で、車を持っている教師が、怪我人を病院に連れて行くと言い出したこと。俺とあと二人が先生について行った。でも俺たちはけっきょく、病院にはたどり着けなかったんだ。車が渋滞したので乗り捨てて、そのあとはずっと逃げていた。あの狂った感染者たちから。
 最初、俺たちは誰も、あいつらに噛まれはしなかった。なのにまず、先生が狂ってしまった。とつぜん発病して、仲間のひとりを殺してしまった。俺とあと一人は逃げたんだが、二人とも噛みつかれてしまった。俺はそれでも正気でいられたんだが、もう一人はすぐに狂ってしまったな。だけど不思議なことに、あいつ、俺を攻撃してはこなかった。やつらは感染したものを見分けるんだ。感染していないものだけを攻撃して食べるようだ。
 うん、そうだ。俺は乙女なんだ。こんな見た目になってしまったし、信じてもらえないかもしれないが、俺は乙女だ。あのときおまえの、逃げろという声を聞いて、体育館を逃げ出して、学校も逃げ出して、そのあとずっと、ずっとさ迷っていた。俺は感染者には攻撃されないから、夜でも平気で歩くことができた。だからあちこち歩き回って、いろんなものを見てきた……」
 乙女はそこでいったん言葉を切り、フードの奥の暗い目を牡牛に向けた。
 牡牛は言った。
「久しぶりだな、乙女」
「……この部屋の窓からおまえの姿を見たとき、俺は久しぶりに、自分が人間だってことを感じたよ。いろんなことに慣れすぎていて、感情が動かなくなっていたんだ。本当はもう、自分も狂ってるんじゃないかと思ってた。でも、違った」
「なんで声をかけてくれなかったんだ。おかげで酷い目に会った」
「今の俺は感染者にしか見えないだろう。おまえだって最初は俺を見て、誤解してたじゃないか」
 牡牛は押し黙った。
 乙女は、低く笑った。
「だから最初は無視するつもりだったんだ。病気がうつっても大変だしな。しかしおまえが、何度も同じ道を走っていて、どう見ても道に迷っているものだから、つい地図を投げてしまった」
「あの赤ん坊はなんだ?」
「拾ったんだよ。最初は普通の赤ちゃんだった。……難しいんだ。赤ちゃんが乱暴なのも、知能が低いのも、やたらと口にものを入れるのも、当たり前のことだしな。からだが痛んでいるのは俺も同じだし。完全に狂ってしまったのかどうかの見分けがつかずに、ずっと放置してきたんだ。だが今日、おまえを襲っているのを見て、やっと判断がついた」
「その子とずっと一緒に居たのか。一人ではなかったんだな」
「おまえは一人だったんだな。よく耐えられたものだ」
「うん、まあ、なんとか」
「昔のままじゃないか。少しやつれているが」
「この二日でずいぶん痩せたと思う。こっちも色々あったんだ」
 そして牡牛も話し始めた。あの日、学校を逃げ出したあと、ひたすら隠れて生き延びてきたこと。公園の展望台にたどり着いて、そこにずっと住んでいること。畑をこしらえていること。双子のメールを読んだこと。トンネルに住む野犬の謎。学校の虎、運動場の地雷、そして今に至ること。
 乙女は、呆れていた。
「それじゃおまえ本当に、普通に暮らしていたのか」
「暮らし方ってことなら、そうなるのかな」
「こんな世界で、普通に。……野菜づくりだと? ……朝のコーヒーか」
「下の自転車の荷物にまだ、缶コーヒーが一本残ってる。飲みたかったら取ってこい」
「缶コーヒー。ははは。本当に、おまえ……」
 笑い混じりの乙女の声は、口の包帯のせいでくぐもっていて、ひどく聞き取りにくかった。牡牛は、もう少し近くに来てくれたらいいのにと思っていた。しかし乙女はその場を動かず、ただ顔を窓の方に向けた。
「もらおう。でも取りに行くのは、日が落ちてからだ。俺はもう、太陽の光がつらいんだ。だからこの格好なんだよ。この格好で光はふせげるが、それでも太陽の真下に出て行く気にはなれない。なんというか、炎に飛び込むような怖さを感じてしまうんだ」
「痛いか?」
「ふだんは痛みを感じない。だが光を浴びるとひどく痛む」
 牡牛は、どうやって乙女を展望台に移動させようかと考えはじめた。



 日が落ちると乙女が、牡牛の荷物を取ってきてくれた。それに加えて、乙女自身の持っている水や缶詰類を提供してくれた。そこで牡牛はまず、家の窓をすべて塞いでくれと頼んだ。自分は台所にあぐらをかいて、この家に放置されていた道具と食器を勝手に取り出して、調理をはじめた。戸棚にあったガラスコップでまたランプをこしらえて灯す。持ってきた素材の中から、ジャガイモを取り出して剥き、まな板で切り、家庭用の簡易コンロになべをかけ、水を張って湯をわかす。ジャガイモを茹でて、煮あがり具合を確かめつつ、食器棚で発見したパスタを投入する。乙女がくれたコーンの缶詰を開いて入れ、最後にカレースパイスを加えてひと煮立ちさせ、皿に盛り、牡牛が持ってきたラッキョウをそえる。それで完成だが味気なく思ったので、みかんの缶詰を開け、小鉢に盛ってデザートにした。
 乙女は牡牛の料理の様子を見ながら、ひたすらに呆れたり、笑ったりしていた。とくにラッキョウを添えるのはツボに入ったようで、肩を震わせて笑いをこらえていた。牡牛は、自分の調理のなにが可笑しいのか、なんとなくは分かるものの、よくは分からなかったので、放っておいた。
 出来上がった二人ぶんのスープパスタを目の前にして、乙女はしかし食べることを躊躇しているようだった。牡牛は言った。
「具が貧しいけど、不味くはないと思う」
「違うんだ。その……」
 乙女は、ためらうように視線をうつむけた。
「ここじゃなくて、むこうで食べてもいいか? おまえが食欲を無くすといけないから」
 乙女は、顔の包帯をほどくことを気にしているのだった。牡牛はなんてことのない調子を装いつつ言った。
「俺は気にしないけど、おまえが気にするんならそうしてくれ」
「すまない」
 視覚的に衝撃的な乙女の様子について、牡牛は気にしないようにしていたが、乙女自身が気にしないはずはなかったのだ。しかし牡牛は、乙女にうまいものを食わせてやりたいと強く思っていて、乙女という人間と一緒に食事をしたいと強く思っていて、そこを気づかうことを忘れていた。
 乙女は盆に食事を乗せて、玄関の方に姿を消した。久しぶりに他人と食事が出来ると思っていた牡牛は、とても残念に思っていた。しかしまもなくして、玄関のほうからパスタをすする音が聞こえてきて、その勢いがとても良いこととか、合間合間に満足そうな溜息が聞こえてきたこととか、やがて「うまいよ、牡牛」とか、「熱のあるものを食べたのは久しぶりだ」とか、「しかし贅沢だな、このご時世に」とかの声をかけられたことが、牡牛をとても幸せな気分にさせた。