星座で801ログ保管庫出張所

地球最後の…12

 牡牛は足を引きずって団地に入った。階段は狭くて逃げ場が無かったが、各家の鉄製の扉が頑丈そうなことと、開けば音ですぐに分かりそうなことが救いだった。慎重に、一段、一段、足を持ち上げるように進み、長い時間をかけて四階までたどり着く。
 目的の部屋のノブを握り、そうっと開く。扉がきしむ音が大きく響いた。
 細い隙間から中を覗き込む。玄関から中の廊下にかけては、誰もいなかった。
 扉をもっと開き、中に侵入した。
 玄関にはサンダルが二足、並べて置いてあった。平織りの玄関マットの向こうに、フローリングの床が続いている。狭い家で、短い廊下のすぐ突き当りが部屋だった。牡牛はその畳の間に向かった。
 入ってみると、無人だった。窓のほうを見ると、開いた窓から吹き込む風が、カーテンをひらひらと揺らしていた。牡牛は奇妙な感慨を受けた。誰も居なかったにもかかわらず、緊張が解けて、ほっとしたようなかんじだった。腐ったものがいなかったせいだけではなかった。牡牛はもう、人がふつう他人と出会ったときに、どうふるまうべきなのかを、忘れかけているのだった。
 部屋を出て、また階段をあがる。窓が開いていた家はもうひとつあった。そこを調べなければならない。五階にたどり着いて、その階のドアを開いた。今度はきしむこともなく、ドアはスムーズにあいた。
 同じ造りの玄関から部屋に入る。そして窓のほうを見て、牡牛は、腐ったものを発見した。
 窓から差し込む光を避けるように、それは窓の横の壁際に立っていた。姿も光を避けるためか、長い黒いコートを着ていた。コートのフードで頭を覆っていたので、目元は影になって見えなかった。だが顎から首にかけては、薄汚れた包帯がびっしりと巻かれていた。手はコートの袖に隠れている。コートの下には黒いズボンの足が見えていて、その裾から見える足首から足の甲までも、やはり包帯で覆われていた。そしてわずかに見える肉体の部分、足の指の先は、皮膚が腐ってずるずるに剥けていた。
 いささか弛緩していた牡牛の精神は、いっきに緊張した。牡牛はうなじに氷を差し込まれたような感覚を受けながら、そろそろと後退した。痛みを食いしばって足に力を入れ、靴音を殺しつつ、後ろ歩きに部屋を出ようとした。しかし牡牛の足は弱りきっていた。敷居のわずかな段差を越えそこねて、つまづき、畳に尻餅をついた。
 音に、腐ったものが反応した。牡牛を捕まえようとするかのように、ゆらりと片腕を持ち上げたのだ。
 牡牛は這うようにして逃げた。廊下から玄関までつんのめりつつ走り、扉を開いて走り出た。階段を途中まで降り、途中からは転げ落ち、4階にたどりついてから、さっき無人であることを確認した部屋のドアを開いた。中に逃げ込み、鍵のサムターンを回すと、さらに廊下の奥まで逃げ、そこの部屋でまた尻餅をついた。
 背中のシャベルを降ろし、それを杖にしつつ立ち上がった。背中をふすまにもたれさせると、シャベルを正面にかまえた。目線の先には玄関ドアがあった。
 牡牛は思った。あれらは、おしなべて力が強い。だが鉄製のドアをやぶったり、鍵をこじあけるほどに力は強いだろうか。強くあってくれるな。頼む。
 バンバンと、ドアが叩かれた。
 牡牛は念じた。頼む、頼むと。
 外からドアが引かれ、がしゃんと音をたてた。
 牡牛は唇を噛んだ。「ドアを開く」という知能があるということは、まだ腐敗の程度が浅い、肉体の損傷がすくない、強い力を持った相手だということだからだ。
 ドアはもう一度がしゃんと鳴った。それから、静かになった。
 どうやらドアを破る力はないらしい。ほっとした牡牛の背中を、何かが押した。
 もたれているふすまが、牡牛の背中を押していた。
 続いて、かりかりと、ふすまの紙を引っかく音が聞こえた。
 牡牛は思い出していた。自分は、地図を投げてくれた誰かを探して、ここに来たのだったと。
 牡牛はふすまから背をどけた。隠れている誰かが出てこれるように。
 しかし中の人物は、ふすまを開かなかった。かりかり、かりかりとふすまを引っかき続けて、しまいには破いた。
 ふすま紙を強引に破りながら出てきたそれが何なのか、牡牛は最初、わからなかった。次に、猫かと考えた。そして気づいた。四つ足で這う小さな生き物は、腐った赤ん坊なのだった。ハイハイで歩く、小さな、腐った赤ん坊が、牡牛に近づこうとしているのだ。
 牡牛は、足を引きずって逃げながら、窓枠にたどり着いた。
 腐った赤ん坊は、窓からの光が、畳に射している部分にまで這い寄ってきた。そして光で頭を焼かれ、ぎゃーと声をあげて後退した。だが赤ん坊は諦めず、牡牛を中心に円を描くようにして、光の射さない部分を這い始めた。
 このとき牡牛は、手に力を込めて、シャベルで赤ん坊を叩き潰すことができる状態だった。しかし牡牛の心が、その力を失っていた。牡牛は逃げることしか考えていなかった。背後の窓から外をのぞき、そこから飛び降りられるかと考えたりもした。だが4階から地に叩きつけられては死ぬだろうし、運良く助かってもどこかの骨を折るだろうし、そうなれば結局逃げられないことに気づき、目を部屋に戻す。
 赤ん坊は、牡牛の横の、カーテンを這い登っていた。カーテンレールの上から、牡牛に飛びかかるつもりのようだった。
 赤ん坊から身を離そうとして、窓枠の反対側によろけた牡牛の耳に、この家のドア開く、きしみの音が響いた。
 牡牛は部屋の入り口のほうを見た。視界の中に、五階に居た、腐った、黒い男の姿が、ふらりとあらわれた。黒い男は手に白い袋をぶら下げていた。袋には肉か何かが入っているらしく、下部が血で汚れていた。牡牛はその袋を見て、そこに牡牛の肉も詰め込むつもりなのだろうと考え、絶望した。どうしようもないことを、牡牛は悟った。どちらかを攻撃しても、どちらかに攻撃されるのだ。
 牡牛の足は痛み、腕の傷も痛み、頭は思考力を無くしていた。やはり窓から飛び降りるかと考えた。素早く動けば可能だった。躊躇をせずに窓から飛ぶのだ。頭から飛び降りて、脳を地面に潰してもらえば、そうすれば少なくとも、自分は人間として死ねる。
 腐った男はゆっくりと、牡牛に近づいてきた。黒ずくめの姿は死神のようだった。牡牛はどうしても動けなかった。男は牡牛の目の前に立ち、袋を両手で持ち上げて、かかげた。
 そして腐った男は、袋を振り下ろしたのだった。牡牛の横に居た赤ん坊に向けて。袋にはなにか固いものが入っていたらしく、それをぶつけられた赤ん坊は一発で、小さな体を畳に叩きつけられていた。腐った男は容赦なく袋を振り上げ、振り下ろし、小さな赤ん坊の体をつぶした。血と脳漿が畳の上に広がり、白い袋は汚れの面積を増した。
 赤ん坊が完全につぶれたあと、腐った男は、牡牛に顔を向けた。
 牡牛は、呆然としていた。
 腐ったもの同士の仲間割れを見たのは初めてだった。男が暴れているうちに逃げれば良かったのだが、牡牛はもう、逃げる気力さえ失っていた。あの展望台から出てきて、捜し求めた人々を、誰ひとりとして見つけられず、ただ体を傷つけるだけに終わったこと。そして、やっと見つけた生きている人間の気配を、まったく突き止められずに終わりそうなこと。それらの事実が、牡牛の心を折っていた。
 だから男に殴り殺される運命に対して、牡牛はもはや、何も感じてはいなかったのだ。生きそこねて、死ぬ。それだけだった。
 しかし男は動かず、袋から片手をはずすと、のろのろと指先をあげた。
 包帯に巻かれた人差し指が、ドアの方向を指していた。
 その途端、牡牛の中に、まともな思考と、気力が回復した。
 脳内でつながってゆく情報。それによる推論。牡牛は思った。目の前のこれは、自分に向かって意思を表示している。
「どっちなんだ?」
 おまえは牡牛の側に属するものか、それとも腐った側に属するものか。
 男は指を降ろし、自分の足のつま先を指した。
 男の足には、最初に見たときと違い、靴が履かれていた。腐ったつま先は見えなかった。
 牡牛は、ぞくぞくと震えた。その震えは、快感でもあり、不安でもあった。
「生きているのか。狂ってないのか。おまえは人間なのか」
 男は無言だった。牡牛は答えを求めて、男に向かって一歩を踏み出した。
 すると、声が聞こえた。
「来るな!」
 小さく、低く、くぐもった声だった。
 牡牛は、言うべき言葉を捜した。必死に。言いたいことは沢山あるはずだった。あらゆる感情が体の中にあふれてのたうった。しかし感覚が高ぶりすぎて、なにも言えなかった。あまりにも長い間、人と会話をしなかったので、言葉を発する機能が劣化しているようだった。
 かわりに、男が言った。
「……俺は、足を噛まれたんだ。噛まれた場所から病気になった。病気は体を上へとのぼってきて、今はもう顔まで来てる。俺はもうすぐ人間じゃなくなる。だから……、どこかへ行ってくれ」
 牡牛が「腐り」と呼ぶものを、男は「病気」と呼んでいるようだった。
 牡牛は、別のことを尋ねた。
「人間なんだな」
「今は。……早く行け。おまえは無事なんだろう。俺のそばに居たら、病気がうつってしまう。早く行け」
「腐るのは、病気なのか?」
「たぶん。たいていは血液感染で、しかし空気感染する場合もあるようだ。……行けというんだ、はやく……」
「断る。無理だ」
 言い切ってから、牡牛はその場にすとんと座った。力の抜けた足を引き寄せ、手で靴と靴下を脱ぐ。あらわになった牡牛の左足首は、目で見てわかるほどに腫れあがっていた。
「おまえを探して無茶をしすぎた。もう、歩けない」
「……歩かなければ、死ぬぞ」
「歩いても死ぬだろ。家に帰り着くまでに襲われても、この足じゃ逃げられないと思う。自転車も漕げそうに無い」
「……」
「どうせ死ぬんだったら、俺と話をしてくれないか。俺はずっと、誰かと話したかったんだ。おまえは無いのか、そういうのは」
 会いたい、話したい、触れたい、誰かに。
 男はしばらく黙っていた。やがて男のからだは、小刻みに震えだした。
「無いわけが、無いだろう、牡牛……っ!」
 会いたかったのだ。話して、触れたかったのだ。誰かに。自分以外の誰かに。男の言うとおりだった。そういう気持ちが、無いわけが無いのだ。
 男の顔は相変わらずフードに隠れていて見えなかったし、男の声も聞こえなかった。しかし男が震え続けているので、牡牛は男がおそらく泣いているのだろうと思った。自分も泣きたいくらいだったが、ある疑問が、牡牛に泣くことを忘れさせていた。
 その疑問とは、男がなぜ、自分の名前を知っているのかということだった。