牡牛は無事に目覚めることが出来た。窓から外を見て、朝日が差しているのを確認すると、ドアに向かった。鍵を外し、少し開いて外のようすを伺う。廊下には何もなかった。
牡牛は帰宅の方法について考え始めた。ひとつの問題があった。いま立ってみて、足首をひねっていることに気づいたのだ。
展望台に帰るにも、野犬の居る道を使うのは危険だった。足に体重をかけると痛みが走るのだ。そうでなくても全身に怪我をし、血を大量に失っていて、牡牛の体調は非常に悪い。次に襲われても、車の屋根に駈けあがることはできないだろうし、車の間を走って逃げることも出来ないだろう。あの正体不明の感覚や、犬を操るものの正体は気になったが、それを確かめに行けるような状態ではない。
牡牛はいったんドアを閉めた。床に腰を据え、缶コーヒーをあけると、ランプの火で缶をあぶり、あたためた。荷物から乾パンを取り出すと、温めたコーヒーにひたし、食す。歯で噛みつぶすたびに、コーヒーの甘みが口内にあふれた。疲れと空腹が、粗食をご馳走に変えた。そうしてカロリーを補給し、ついでに荷物を軽くすると、牡牛は放送室から廊下に出た。
まずは校舎の外に出て、日の当たる場所を歩いた。東に歩き、職員室のある棟に到着する。窓から中をのぞき、日がまだ室内の隅々まで当たっていないことを知ると、その場に座り、待った。太陽が少し高く登ってから、石を拾い、慣れた手つきで窓を小さく割り、職員室に入る。
牡牛はかつての担任教師、タラコの机に向かった。綺麗に片付けられた机の上を見て、目的のものが無いことを確認すると、引き出しのいちばん上を開く。文房具の上に、猫のキーホルダーをつけた鍵束が見つかった。それを取ると、ついでに他の引き出しも開いた。賞味期限の切れた菓子の箱があった。おそらくタラコが生徒から取り上げたものだった。それも貰う。そうして素早く物色を終えて、そこを去る前に、なんとなく机の上に目を走らせ、最初は見逃していたあるものに気づいた。本立てにテープで貼り付けられていたのは、3年1組の面々の集合写真だった。最後にそれだけを取って、牡牛は職員室を、窓ではなく、廊下側に出た。
前後を警戒しつつ廊下を歩いて、教師たちの使っていた裏門へと向かった。直線距離としては短かったが、牡牛は足をかばってゆっくりと歩いた。
裏門に到着すると、そこは駐車場だった。片隅には自転車小屋があり、端にタラコのマウンテンバイクが置いてあった。鍵をより出しては嵌め、あてはまったキーでロックを解き、またがった。こいでみると、歩くよりは足への負担が少なかった。
牡牛は背中のリュックの中身を、自転車のサイドバッグに入れ替えた。隙間があいたリュックにシャベルを刺し込み、上から紐でぐるぐる巻きにして、背負う。そうして裏門のそばの通用門からバイクを外に出すと、またがり、走り出した。
牡牛が選んだのは団地街を通る道だった。その場所は、無機的なコンクリートの建物が左右に立ち並び、建物は薄暗く、危険ではあった。しかし直線的な道自体は、光がよく射した。ただ建物にある程度の高さがあるので、日影の面積も大きかった。それで牡牛は慎重さよりも速さを選び、ひたすらにペダルを漕いだ。
だが団地内には、階段や、段差や、行き止まりが多かった。それに方向自体は間違っていないはずなのに、同じ建物がずらずらと並ぶ場所は、位置がわかりにくかった。牡牛は何度も同じ場所にたどり着いては、バイクをかつぎ、階段をあがったり、柵を乗り越えたりする羽目になった。
通り過ぎたはずの児童公園にまたたどり着いたとき、牡牛は疲労を感じた。いちど休憩することにして、小さな広場の真ん中にバイクを停めた。座り込み、汗をぬぐう。涼を求めて日影に入りたかったが、それは止しておいた。
そのときだった。ガラガラという音が響いた。
牡牛は弾かれたように立ち上がり、背中のシャベルを取ろうと慌てた。急いでリュックを脱ぎ、リュックをシャベルの先にかぶせたまま、柄を持って構え、あたりを見回す。
広場の片隅に、何かが転がっていた。
牡牛は、慎重にそちらへ向かい、その白いものを拾い上げた。
それは紙包みだった。開いてみると、中には沢山の硬貨が、ビニール袋に包まれて入っていた。調べてみると、1円、5円、10円が多く、100円は数枚しか無く、500円は一枚だけだった。
牡牛は少し笑った。それはこの時代で、もっとも価値が無いものだった。なぜこんなところに落ちているのか。あの日、団地から避難しようとした誰かが、あわてて落としたのだろうか。
牡牛は沢山のものを盗んできたが、盗む価値の無いものを盗む気は無かったので、それをもとの場所に置いておくことにした。破いたビニール袋に硬貨を入れ、しばり、紙で包もうとする。
紙の裏側に、なにかが書かれてあった。
いびつな四角と直線が並んだそれを、牡牛はしばらく見つめた。それの一箇所に×印が書かれてなければ、意味がわからなかったかもしれなかった。しかし牡牛は悟った。それは団地の地図だった。つい今しがた、何者かによって書かれた地図だった。
牡牛は辺りを見回した。その場で360度回転して、すべての方向を見た。誰の姿も見えなかった。だいいち誰かが来たのなら、牡牛は気配に気づいたはずだし、逃げていったのなら足音を聞いたはずだ。足跡も残るだろうし、そしてなによりも、向こうがこちらに声をかけてくるはずだ。
はっと気づいて、硬貨が落ちていた方向に体を向け、視線を少し上げた。
その方向には、公園のふちから少し離れて、五階建ての建物があった。一階、二階、三階は窓が閉まっていた。四階と五階は窓が開いていた。
先ほどのガラガラという音は、窓を開いた音に違いなかった。何者かが高い場所の窓をひらき、そこからこの地図を、広場に向けて放り投げたのだ。
牡牛は迷った。四階か、五階か。
足の調子を見た。ここまでペダルをたっぷりと漕いだせいで、痛みが増していた。しかし、確かめないわけにはいかなかった。
誰かが居る。今度こそ、確実に。