牡牛が選んだのは放送室だった。その部屋は壁が防音で、扉が丈夫で分厚かったからだ。窓は嵌め殺しで、たとえ割れても、大きな生き物は潜り抜けることができないくらいのサイズだった。
牡牛は服を脱ぐと、荷物から缶入り緑茶を取り出し、体中の傷を洗った。茶は染みて、牡牛は呻いたが、その声は防音壁が吸収してくれた。
そして空き缶の側面に包丁の先を射し込み、チューリップのようなギザギザの形に切った。切った花びら状の三角形を内側に折り込むと、中に油をそそいた。ティッシュを取り出してこよりを作ると、缶の中にこよりが立つように、ギザギザに挟んで刺す。そうして簡易なランプを作り、火をつけた。
脱いだ上着を窓に押し付けると、テープで貼り付け、目隠しにした。暗闇で、ランプの光は温かく光を放ち、牡牛の血まみれの裸身を照らした。
暗い世界で牡牛は動いた。荷物からハンカチを取り出して、左手に巻きつけた。自分からは目視できない肩の傷口には、包帯を巻いた。右腕の深くえぐれた傷にも、牡牛は包帯を巻こうとした。しかしあふれる血が包帯を押し流し、うまくいかなかった。
そこで牡牛は針と糸を取り出した。暗がりで苦労しつつ針に糸を通し、それに消毒液をまぶす。左手に針を持ち、針先で、傷口近くの皮膚をすくいあげた。
痛みに鳥肌をたてながら、糸を引っ張る。糸が牡牛の体内を通るにつれて、牡牛の中には、おろし金で神経を直接こすられるような痛みが湧き上がった。牡牛は奥歯をかみしめ、いっきに左手をもちあげた。糸の輪が皮膚に吸い込まれた。
傷が大きいので、この作業と痛みを、あと何回も繰り返さなければならない。牡牛はうんざりした顔をしたが、脱いだ衣服をさぐり、シャツを丸めて口にくわえると、ふたたび縫合に挑んだ。傷口をはさんで、いま縫った箇所と、反対側の皮膚に針をさした。声は歯の隙間から絶え間なく漏れたが、牡牛は震える指から針を離そうとしなかった。なるべく小さく皮膚をすくいあげ、糸を引っ張る。
牡牛はシャツを吐き出し、わめいた。糸の小さな毛が細胞にからみ、ズタズタに引き裂いていく音さえ感じられるようだった。そろそろと腕を動かし、やっと、ひと針目を縫いきったとき、牡牛は気絶しそうになっていた。
この特殊な縫い物を、再度始めることもできず、しかしやめることも躊躇して、牡牛は目を閉じると、しばらくじっとしていた。やがて全身に湧き出た汗が冷えるころ、牡牛は目を開いた。
牡牛は、痛いのは生きている証しだと自分に言い聞かせた。
そしてまた、針を皮膚につきたてた。
ひと針、またひと針と縫ううちに、何十分経過したかわからなかった。牡牛の叫び声はかすれ、彼は眩暈をおこして朦朧としていた。やっと最後のひと針を縫い終えると、糸の端を結び、噛み切って、牡牛はその場に倒れこんだ。
気絶なのか睡眠なのか分からなかった。とにかく意識を失った。
痛みによって眠った牡牛は、やはり痛みによって目覚めた。
のろのろと身を起こすと、自分のからだをさぐり、状態をたしかめた。指先が傷口を辿ると、乾いた血がぽろぽろと落ちたが、あらたな出血は無いようだった。そこでいったん、ランプを吹き消し、窓の目隠しをすこし外して、外の様子を見た。
夜になっていた。雨が降っていて、ガラスの表面には雨粒が散らばっている。物音は聞こえないが、牡牛はもうこの学校が、腐ったものや、野生動物が住んでいる、危険すぎる場所であることを理解していた。心配なのはこの放送室が、あしたの夜明けまで保ってくれるかどうかだけだった。そしてそれは、牡牛の努力でもどうしようもない問題だった。
ふたたび窓に目隠しすると、ふたたびランプに火をつけた。灯りをともすことは危険だったし、油も勿体無かったが、この場所で、牡牛に安らぎを与えてくれるものは、その小さなランプしかなかったのだ。
痛みに苦労しつつ服を着てから、荷物から鎮痛剤を取り出して噛み砕き、飲み下すと、ふたたび横になった。目を閉じても、起きたばかりではなかなか眠れず、傷口の痛みがことさら強く感じられるだけだった。だから牡牛は無心になることを諦め、考えた。今日の出来事について。
そしてハッと思いついた。
牡牛の中には、獅子と語り合った思い出が再生されていた。
世界がまともだったころ、ある日、社会のレポートで、獅子は地雷について調べたことを発表していた。ふつうその手のレポートは、地雷がどれだけ残酷な武器で、人々にどのような迷惑をかけていて、だからどのように除去して、世界を平和にするべきか、という方向性で書かれるべきものだった。しかし獅子はまったく逆のことをやってのけた。地雷がどれだけ優れた武器で、敵に対してどれだけ有効で、だからどのように敷設して、国を守るべきか、ということを発表してのけたのだ。平和主義の教師は、獅子のレポートに厳しい評価を下した。
獅子は牡牛に言った。予想はしていたと。
「俺は当たり前のことを言っただけなんだが。専守防衛の理念にぴったり合うんだ、あの武器は。みずから攻撃をするわけではなく、相手から攻撃してきた場合のみに働くもの。調整によっては、相手の攻撃力を奪うだけで、命までは奪わずにすむもの。そういう武器は他に無い」
牡牛はいちおう反論していた。いまも地雷の被害に苦しむ国があることについて。獅子はべつに否定もせず、頷いていた。
「誰にでも作れて、簡単に設置できるが、除去は難しい。それはある」
「あの国では、敵が一人も居なくなったあとも、残った地雷が、なんの罪も無い子どもの手足を吹き飛ばしてるんじゃなかったか」
「ああ。きっちりとした戦略と戦術のもとで使用されなければ、国は自分で自分の首を絞めることになる。だがそれは、他の武器も同じだ。地雷も銃も核ミサイルも。台所にある包丁だってそうだ」
「俺は包丁は、料理にしか使わないが」
「それでいい。包丁が武器なら、肉や魚は敵で、料理という目的は戦略、調理法が戦術だ。地雷という武器は、戦術上、敵の上陸が確実に予想される箇所に埋める。海に囲まれたこの国では非常に有効。わかりやすい話だと思うんだがな」
それから獅子はふと様子を変えて、牡牛の顔を覗き込んできたのだった。
「怒らねぇのか」
なにをと尋ねると、獅子は肩をすくめた。
「これが乙女あたりだったら、教室が燃える勢いで俺を責めてくるところだ」
「べつに……怒るような話じゃないだろう。考え方が違うだけで」
「誰がなにを考えようが、俺は、俺が正しいと思ったことを主張するぞ」
そうだろうなと牡牛は思った。牡牛だって、誰がなにを考えようが、どこの通り魔が包丁を殺傷に使用すべきだと考えようが、自分は包丁を刺身づくりに使うだろう。
「けど、どちらかといえば、みんな、地雷がすごく必要になるような世の中ってのを、想像したくないんじゃないか」
獅子は、これにも頷いていた。
「平和な方がいい。実は、いとこが、地雷除去のボランティアをしてるんだ。俺もいつか参加してみたい」
「そういうレポートを書けばよかったのに」
「ふん……。あの教師に擦り寄って、点をもらうようなやり方に、興味が無かっただけだ」
獅子らしいなと牡牛は思った。
そう、地雷だ。運動場で、腐ったものを吹き飛ばしたのは、地雷だ。
平らだった運動場はでこぼこになっていて、あちこちに土の小山ができていた。土の大地が、雨風の影響を受け続けたとして、たった一年ちょっとで、あそこまで乱れるものではない。あの運動場には沢山の地雷が埋まっていて、おそらく何度も爆発しているのだ。
あの日からしばらくは、体育館には、獅子の言うところの「敵」が、たくさん潜んでいたことだろう。それらを掃討すべく、何者かが、運動場に地雷を設置した。そのおかげで、月日がたつうちに、沢山の「敵」が死滅した。だから牡牛のような一般人が、のこのこと学校に侵入するくらいの余裕はできていた。
牡牛は、今晩を生き残れる可能性が、それほど小さくは無いことを悟った。安堵を感じ、そのおかげで、眠りの気配を捕まえることができた。