雑草が伸び放題になった中庭の草むらが、風も無いのに動いていた。草むらの中のものは、おそらくは、牡牛の侵入に最初から気づいていて、太陽が隠れるのを待っていたのだ。
三方は校舎に囲まれている。ゆいいつの道は体育館に続いている。校門ははるか遠い。牡牛はスコップを握り締めながら、恐怖でもなく、後悔でもなく、絶望でもない、しかしそれらに似た感覚を、ぜんぶ同時に感じていた。
牡牛は思った。どうやら自分はここで死ぬしかないようだと。彼らに五体を引き裂かれて食われて。骨まで残らぬように食ってもらえたらまだ幸せかもしれない。中途半端な死体になって、彼らの仲間として復活してしまえば最悪だ。自分は、この世界にまだ居るかもしれない、人間を襲ってしまうかもしれない。そんなものになるくらいなら、今すぐここで自分の身を焼き尽くしてしまったほうがいい。ライターはポケットにある。油は荷物の中にある。今ならまだ間に合う。
また、こうも思った。この世界にはもう誰も存在しない。自分以外の人間は存在しないのだ。双子も蟹も、おそらくもう、生きてはいないだろう。みんな死んでしまった。死の順番がやっと自分に巡ってきただけのことだ。ならば死のう。できるだけのことはやった。あとはおとなしく死んでしまおう。そのほうがきっと楽だ。
また、こうも思った。このまま死んでしまうのはどうにも悔しい。せっかくここまで生き延びてきたのに。誰かが生きているはずだと信じていたのに。あの展望台で、食料を育て生活道具をあつめて、誰かが牡牛を尋ねてきてくれる日を待っていたのに。
草むらから、何かが飛び掛ってきた。
牡牛はそれの歯をスコップの柄で受け、そのまま仰向けに押し倒された。それは牡牛の予想したものではなかった。それは、虎だった。虎の吐く息が牡牛の顔に当たったので、牡牛は自分が生きているものに襲われているのだと自覚した。
仰向けに地面に倒れて、両腕が縮こまった姿勢では手に力を込めることも出来ず、牡牛はただただスコップの柄を掴み続けていた。虎の歯はスコップに噛み付いたまま、ぎりぎりと木の柄を噛み砕き、折ろうとしていた。
最初の衝撃を通り過ぎると、牡牛の中に、なにかふてぶてしい、落ち着きのようなものが産まれて来た。牡牛はスコップを掴み続けた。相手を跳ね除けようと無理に力を込めたりはしなかった。そのかわりに相手の歯が、スコップの柄の同じ場所を噛み続けぬように、左右に微妙にずらしたりした。虎の爪が牡牛の肩を引っかいて裂いたが、牡牛は痛みも感じなかった。集中しつつ、ひたすら耐える。やがて虎は消耗し、噛む場所を変えねば埒が明かぬということも悟ったようだった。
虎の歯がスコップから外れた瞬間を、牡牛は見逃さなかった。親指を思い切りたてて、虎の目に押し込んだのだ。
虎は片手で目元を掻こうとして、ついでに牡牛の腕をえぐった。虎の体重の重心が移動したので、牡牛は今度こそ全身の力を込めて体をねじり、虎の下から脱出した。立ち上がると、スコップを振り回し、虎の鼻先を叩いた。
虎は、ちゃんと痛みを感じることが出来るようで、腐ったもののようにがむしゃらに攻撃してきたりはしなかった。体育館の方角へ逃げ出したのだ。牡牛は虎とは逆に、中庭の奥に走った。スコップをふりあげ、進路を阻む渡り廊下のガラス窓を打ち壊すと、手を中に入れて鍵を開き、校内に侵入した。廊下の左右はあえて見なかった。牡牛は真っ直ぐに廊下を横切り、反対側のガラス窓も同じように叩き壊して、開いた。そこから外に脱出する。
運動場を見下ろせる場所に出てきた。
運動場には、腐ったものが一匹、うろうろと歩いていた。
そのとき、雲から太陽が顔を出した。
腐ったものは慌てたように、体育館のほうに歩いていった。腐敗の度合いが強く、足の機能に障害があるのか、歩みはそう速くなかった。そしてその位置が、運動場の端から10メートルくらいのところに近づいたとき、異変が起こった。乾いた破裂音と共に、運動場に土煙があがったのだ。そして歩いていたものの体は、粉々になっていた。煙が晴れると、体が五つぐらいに分かれて、それぞれが数メートル離れた場所に点々と落ちていた。
最初、牡牛は、わけがわからなかった。牡牛の目には、腐ったものの体が、とつぜん爆発したように見えたのだ。
そして驚いたせいか、興奮が冷めたせいか、痛みに襲われた。
牡牛はしかし、やはり習慣で、呻き声をこらえた。牡牛は自分の両手を見た。右手が、腕から流れ落ちる血で、真っ赤に染まっていた。左の手のひらにはガラス片が刺さっていた。
牡牛はこれも習慣で空を見上げ、雲の位置を確かめると、今出てきたばかりの校舎を振り返った。
そして、戻っていった。