学校は、あちこちの窓が割れていた。壁にはツタが這い登っている。平らだった運動場はでこぼこになっていて、あちこちに土の小山ができている。風に吹き寄せられたゴミが、サッカーゴールの中で固まっている。そのすっかり変わった母校を前にして、牡牛は考えた。体育館と新校舎、どちらに行くべきかと。
しかし体育館に先に行く気には、どうしてもなれなかった。あの日、人々を殺した者たちが、まだ中に居るかもしれないからだ。蟹が居る可能性はきわめて低い。居れば殺されているだろうし、殺されていれば腐っている可能性もある。また生きていれば、いつまでも体育館には居ないだろう。脱出して別の場所に居るはずだ。
牡牛は新校舎のほうに歩を進めた。コンピュータ室はそちらにあった。
窓という窓から中をのぞき、誰も居ないことを確認する。それから玄関に移動し、スコップを目前に構えながら、ゆっくりと中に入っていった。校舎内は薄暗かったが、完全な闇ではなかったので、移動はスムーズに出来た。階段をあがり、二階の廊下を歩いて、コンピュータ室の前にたどりついた。
ドアノブをにぎり、ひねる。鍵はかかっておらず、ドアは簡単に開いた。
しかし教室内は、真っ暗だった。牡牛は戸口に佇んだまま、しばらく躊躇していた。やがて決意し、荷物から懐中電灯を取り出す。明かりを灯し、足元から奥のほうへと、光の輪を移動させる。
規則正しく並んだPCたち。それ以外は何も無いようだった。隅から隅まで、机の下まで丁寧に照らしたが、誰も、何も無かった。教室のいちばん奥には、機器を陽光から保護するための分厚いカーテンが見えた。あれを開くべきだろうと、牡牛は判断した。
奥歯を噛み締めて恐怖を殺しながら、教室内に入った。壁伝いに奥まで進み、カーテンを握り締める。歩くに連れて、カーテンレールがシャアっと音をたてて、開いてゆく。差し込んだ陽光が教室内を照らし出した。
やはり、規則正しく並んだPC以外は、何も無く、誰も居なく、ただ黒板に文字が書いてあった。
ここはキケン
べつの場所に行く
逃げてくれ
双子
特徴的な右上がりの文字は双子のものに違いなかった。かつて借りたノートに書かれていた文字だった。彼が教師に板書を命じられたときに、間違えて怒られていた文字だった。あまりの懐かしさに、牡牛は笑った。笑いながら牡牛は、笑い声を止めようと口元を押さえた。
やはり双子はこの場所で、あの日から、少なくとも3ヶ月間は生き延びていたのだ。生き延びて、なにかの危険にあって、ここを逃げ出したのだ。今も生きているのか、死んでいるのかは分からない。しかし彼の、牡牛の友人である彼の、れっきとした人間である彼の言葉を、文章のかたちではあるが、牡牛はちゃんと、ここで、聞くことが出来た。
牡牛は久しぶりに、他人の心に触れたのだった。
念のためにすべての机の中と下をのぞいたが、何も無かった。そこで牡牛はいったん校舎を出た。
深呼吸すると、体育館のほうを睨んだ。
決意をした牡牛はまず、将棋倒しの起きた北側の出入り口に向かった。たどり着いてみると、門が開いていた。大きく開いた門から見える内部には、目で見える場所には、なにも無かった。あの日の通り、床にリノリウムのシートが引かれ、パイプ椅子が散乱し、片側の壁は暗幕で覆われている。人は居なければ、死体も無かった。
牡牛は懐中電灯をつけると、足元から奥のほうへと、光の輪を移動させた。
出入り口ちかくの床には、かつての血の跡が、赤黒い模様をこしらえていた。カバンが落ちていて、中味がその近くに散乱していた。きらめくものを見つけてよく照らしてみると、どうやら千切れたビーズらしいとわかった。
牡牛は、入り口からの光が届かない、奥のほうを照らしてみた。
光の輪の中に、唐突に、人の姿があらわれた。
彼はただ、立っていた。こちらに背を向けて、立ち尽くしたまま動かなかった。
牡牛は心臓が止まりそうになったが、彼が動かないので、注意深くその様子を観察した。彼は黒い学生服姿で、頭髪は短く、首筋のあたりは赤黒く変色していた。制服の袖からわずかにのぞくシャツは、もとは校則どおりの白色だったのかもしれないが、今は血を吸ったせいで、茶褐色に染まっていた。そして袖から伸びた手は明らかに腐っていて、骨が露出していた。
牡牛は懐中電灯を消すと、一歩、二歩と後ずさり、三歩目で向きを変え、駆け出した。追われているかのように必死に走り、行き止まりで立ち止まった。そこは校舎の中庭だった。牡牛は体育館のほうを振り返り、そこから追ってくるものが無いかと見据えた。そして視線を上げて、空を見た。雲が多くなってきていた。
隠れ場所を探さなければならない。日が翳る前に。四方を丈夫な窓に囲まれ、たっぷりと陽光がさしこみ、しかしカーテン等で目隠しもできる所はどこか。ドアは頑丈で、相当の力がないと破られないような場所はどこか。
どこも思い浮かばなかった。あらゆる校内施設、教室などを思い出しているうちに、牡牛は気づいた。
双子が居たはずのコンピュータ室には、なにも無かった。規則正しく並んだPC以外は、何も無く、誰も居なかった。生活をしたあとがまったく無かった。あんな場所で3ヶ月間も過ごすのは無理だ。
さらに考えれば、双子の送ったメールには、メールの送信元に来てくれとは書いてなかった。ただ返事が欲しいと書いてあっただけなのだ。
つまり双子は、あの日、コンピュータ室でPCを起動し、スパムソフトを使ってメールを送った。そして危険を感じ、黒板に文字を書くと、そのままPCを起動しっぱなしにして、逃げた。おそらく別の場所から学校のサーバにアクセスして、返信を拾う気だったのだ。PCは3ヶ月間メールを送り続け、やがて学校への電気が止まって、切れた。
あの黒板の、「ここはキケン」の「ここ」とは、コンピュータ室のことではなく、学校全体のことだったのだ。そしてたしかに、ここはキケンだった。
太陽が、雲に入った。