星座で801ログ保管庫出張所

地球最後の…07

 そこは鉄道沿いの2車線道路だった。路肩にはたくさんの車が停めてあった。それはあの日、街から車で逃げ出そうとした人々が、渋滞に阻まれ、車を捨てて逃げ出したあとだった。
 牡牛は警戒していた。車は内部に空間を持つし、腹の下にも影を持つ。そこに何かが隠れているかもしれない。しかしこの道路を通らなければ、学校にはたどり着けない。
 車の間を慎重に歩いた。死角の多い道だったが、世界が静かなせいで、物音はよく聞こえた。いまのところ鳥の声以外は聞こえない。しかしある場所に差し掛かったとき、牡牛は奇妙な感覚を感じた。耳鳴りがし、不快感を感じ、頭がくらくらするような妙な圧迫感がわいてきたのだ。勘に従って、牡牛は急いで左右を見渡し、前後を見比べると、そばの乗用車の屋根に駆け上った。
 はたして静かな世界には異変が起こっていた。高い位置から見下ろすと、車や街路樹の陰にかくれていたものたちがよく見えた。それは野犬の群れだった。牡牛はすでに囲まれていた。
 得物が手の届かない位置に行ってしまったことに気づいた野犬たちは、隠れることをやめ、牡牛の立っている車のまわりに集まってきた。激しく吠え、威嚇してくる。体の大きな一匹がフロントに足をかけてきた。登って来られては困るので、牡牛はその犬の頭めがけてスコップを振り下ろした。足場が不安定なせいで力が込められず、あの雨の日のように相手の頭を叩き割ることはできなかったが、犬は悲鳴をあげてフロントから転げ落ちた。
 この位置にいる限り安全だろうと牡牛は予想をつけた。ここから降りれば終わりだ。犬たちは牡牛を嬉々として食い殺すだろう。だからあとは、犬たちがいつになったら諦めてくれるかが問題だった。あまり長引けば天気が変わるかもしれない。
 そのとき、また、あの感覚を感じた。耳鳴りがし、不快感を感じた。
 すると犬たちが一斉に、吠えることをやめた。
 犬たちが何かに従っていることは明らかだった。この感覚の正体は何か。この犬たちは、飼われているのだろうか。牡牛には分からない手段でもって、誰かが犬たちを操っているのだろうか。それとも何か別の理由があるのか。
 そして牡牛は気づいた。道路脇の線路は、先がトンネルに入っている。あの奇妙な圧迫感が、そのトンネルからまた、わいてきたのだ。
 犬たちは一斉にトンネルへと走りだした。
 そして、犬たちのほとんどはトンネルに駈け入ったが、ただ一匹、最初に牡牛が殴りつけたあの大きな犬だけは遅れていた。犬は頭から血を流しつつ、ふらふらと歩いていた。そして犬が路上駐車のワンボックスカーの横を通り過ぎようとしたとき、変化が起こった。犬はとつぜん姿勢を崩した。よく見ると、横の車のスライドドアが少し開いていて、犬の足がそこに引きずりこまれているのだった。車の中は暗くて見えない。犬は前足で必死に逃げようとするが、なぜかその犬の幅よりも細いドアの隙間に、体がずるずると引き込まれていく。やがて顔だけが車のドアから突き出したようなかたちになり、その頭もすぐに引っ込んだ。ふちを赤く染めたスライドドアは音もなく閉じられ、世界はまた静かになった。
 牡牛は視線をトンネルの前に戻した。
 長い間、言葉を話すことをしていなかったので、舌があごに貼りついたように、うまく動かなかった。動悸が高まり、思考が乱れた。期待と不安が等量に胸をうめつくす。何度も言葉に詰まりながら、やっと叫んだ。
「誰なんだ! 誰か居るのか!? ……誰なんだ!」
 返事は無く、牡牛は苦しんだ。牡牛の中には、あの犬たちのように、トンネルの暗闇に入って行きたい衝動が沸き起こっていた。
 しかし、トンネルとこの場所の間にある数台の車が、牡牛の欲求を押し留めていた。どの車の中に敵が居て、牡牛をあの大犬のように、中に引きずり込もうとしているのかが分からなかったからだ。また、このまま喚き続ければ、自分の場所を周りに知らせているのも同然だということにも気づいてしまった。
 牡牛は拳をにぎりしめ、足下にある車の天井を叩いた。それも危険なことに、思ったよりも大きな音が響いたてしまった。牡牛はすべての熱い感情を、体の中に押し込めるために、しばらくじっとうつむいて沈黙した。
 やがて牡牛は車をすべり降り、走った。物陰から何が手を出してきても触れられぬように、必死で走った。走りながら、牡牛はまた、過去のことを思い出していた。



 双子がつけた電灯が、体育館のすべてを明らかにしたのだ。
 牡牛はそれまで何となく、動物園から逃げ出した動物が、体育館に紛れ込んだのかなと考えていた。もし自分がテロリストだったとしても、卒業式の体育館で、校長先生ただ一人を闇討ちにしたり、女子の首に噛み付いたりはしないだろう。
 そして体育館内の様子は、牡牛の思ったとおり、出入り口で将棋倒しが起きていた。倒れて苦しむ人々の幾人かは、血を流していた。他の人々は壁際に張り付いて、怯えていた。椅子が散乱する中央辺りをふらふらと歩いている生徒が居て、その生徒は、手に校長先生の頭をぶら下げていた。舞台の上に目を転じると、たしかに校長には頭が無かった。
 首に怪我をしていた女子が、悲鳴をあげて顔を覆った。残酷な風景に驚いたのではなかった。彼女の悲鳴は「痛い!」というものだったからだ。そして牡牛の見ている目の前で、顔を覆う彼女の手にぶつぶつと水泡が浮いてきて、それが破れて汁が落ち出した。
 同じ悲鳴があちこちから上がった。痛い、痛いと叫びながら、彼らは苦しんで暴れ出し、静止しようとした者を跳ね飛ばした。どうやら彼らは光に苦しんでいるようだった。そして彼らは何らかの理由で、人間を数メートルも投げ飛ばして、壁に叩きつけるほどの力を身につけているようだった。
 校長の頭を持った生徒が、なにかわめきながら一人の教師を襲っていた。教師はあっという間に腹を裂かれた。その生徒は教師の腹に頭を突っ込み、潜り込んで隠れようとしているのだった。光を恐れた彼らは、みな似たような行動を取った。倒れ重なった人々の下に入り込もうとして、彼らの体を砂山の砂のように掘ったり、隅っこで固まって震えている保護者たちに近寄って行って、母親たちをまとめて抱きしめて、光源からの盾にしようとしたりした。倒れ重なった人々は肉体をえぐられて乱暴に放り投げられ、抱かれた母親は絞られた水風船のように、耳や口から血を吹き出させた。
 牡牛は、逃げるべきだと思った。しかし牡羊は、助けるべきだと思ったようだった。二人は同時に走り出したが、その方向は逆向きだった。
 牡牛は先ほど双子の入って行った、舞台袖へのドアに向かい、そこを開いた。舞台袖に非常口があることを牡牛は知っていた。牡牛がドアをくぐり、舞台袖に入ってみると、その小さな空間に双子の姿は無く、外壁についた非常口のドアが開いていた。
 そこで牡牛は体育館に戻った。蟹がこちらに走ってきていた。蟹はどうやら牡牛と同じように、もうひとつの出入り口の存在に気づいたようだった。牡牛は蟹と、その他大勢にむかって叫んだ。「こっちだ! 逃げろ! 早く!」
 そして蟹と一緒に体育館を走り出た。体育館の外は運動場に繋がっていた。土の上に上履きで立って、次々と生徒が走り出てくるのを待ちながら、牡牛は蟹に言った。
「携帯あるか」
「警察? もうかけたよ。でも待機してろって言われた」
「待機……?」
「校長はテロって言ってたね。これもテロなのかな。こんなテロがあちこちで起こってて、それで手が回らないのかな」
 牡牛は思った。もし自分がテロリストだったとしても、卒業式の体育館で、校長先生を闇討ちにしたり、女子の首に噛み付いたりはしないだろう。そして人の頭をちぎったり、壁に投げつけて骨を折ったり、腹を素手で裂いたり、抱きしめて血を絞り出したりもしないだろう。
 蟹は体育館から出てくる者たちを見つめながら、ぶつぶつと呟いていた。
「早く出てきて。母さん。母さん。母さん……」



 蟹の家は母子家庭だった。母と飼い犬だけが家族なのだと蟹は言っていた。
あのあと蟹は出てこない母親を心配して、体育館内に戻っていってしまったのだ。
 学校に近い場所にある、道路をわたる橋の上で、牡牛は立ち止まった。両膝に手を置き、呼吸を整えながら、牡牛は考えた。
 学校には双子はいないかもしれない。蟹もいないかもしれない。誰もいないかもしれない。しかし自分は行くべきだろうと。
 呼吸がおさまると、牡牛はまた歩き始めた。