牡牛は発熱した。ただ一人、悪寒と頭痛に苛まれながら、彼はひたすらじっとしていた。体を丸め、肩を抱き、動けば死ぬとでもいうように、自分で自分の震える体を押さえ込み続けていた。うめき声をあげることさえしなかったが、彼は脳の中、幻覚の世界で、悲鳴をあげ続けていた。彼の家族が、友人が、見知っているすべての顔が、どろどろと腐り落ちる夢を見ていたのだ。腐り落ちながら彼らは、牡牛もそうなることを望んでいた。牡牛は大声で拒否したが、そんな牡牛を彼らは非情だと責めた。
そのうちに牡牛は、おかしいと考えるようになった。
こんなことはおかしい。自分の知っている現実とは違う。本当はどうだったか自分は知っている。
支離滅裂な思考と、はっきりとした過去の記憶がまじりあう。
牡牛は思い出していた。暗闇で、牡牛は悲鳴をあげなかったはずだと。
むしろ悲鳴をあげていたのは、自分以外の大勢だったと。
背後で大勢のワアッという声と、地響きがした。体育館の暗闇の中、何も見えないままで牡牛は、逃げ出した人々が、出入り口で将棋倒しになっていることを悟った。前方からは変わらず何かの争う音が聞こえてくる。動かずに居ると、誰かが牡牛の手に触れた。
「大丈夫かおまえっ!」
知った声だと思った。
やっと暗闇に慣れた目が、目の前の人物の、ぼんやりとした輪郭を写し出す。
牡牛は頷いたが、わかるわけがないことに気づいて、大丈夫だと答えた。
「牡羊か? 後ろは人が押し寄せすぎて、つぶれたみたいだ」
「ああ。おまえずっとここに居たのなら、わかるか? 校長どうなったんだ」
これには牡牛はただ「わからん」と答えて、牡羊の手を強く握り返した。
そう、パニックを起こすのは危険だ。慎重に行動しなければならない。まずは何がどうなったのかを知らねばならない。皆は無事だろうか。名を呼びたいが大声を出すのは危険な気がする。
考えていると、牡羊は牡牛の手を引きつつ、そろそろと横方向に移動しはじめた。
「タラコが立ってたトコに行こう。誰かつかまえて救急車呼ばせねえと」
牡牛は引っ張られて歩きながら、今なにをするべきかを考え続けていた。パイプ椅子が腰や足元でひっかかって何度も転びかけたが、それさえ気をつければ、見知った体育館を移動するのはそう難しくなかった。
やがて牡羊と牡牛は体育館の横壁にたどり着いた。手で触れた壁には暗幕が張ってあった。牡牛は考えついたことを牡羊に言った。
「光を入れるんだ。この布を取る」
言いながら牡牛は空いている方の手を伸ばし、幕を引っ張った。
テープか何かで止めてあっただけらしい暗幕は簡単に取れた。長い布地をぐいぐいと引き寄せつつ、牡牛は体育館内を見回した。
やはり大勢の人々が、出入り口付近に、固まりになって倒れていた。小さな換気窓からの光だけでは、細かい様子まではわからない。しかしたくさんのうめき声が読経のように響いており、大変なことになっているのはよくわかった。
牡牛は、舞台を見上げた。舞台の上には窓の光はほとんど届いていない。見えるものといえば、倒れたスピーチ台と、その上に倒れた校長の姿だった。校長の体は半ば舞台からずり落ちかけており、気絶しているのか、動いている気配は無かった。
牡牛はしばらく、息をするのを忘れた。
牡羊の声で我に返った。
「手ぇ離せ。痛ぇよ。大丈夫だから俺は」
そこで牡牛は初めて、牡羊に声をかけられた最初から今まで、彼の手を握りっぱなしだったことに気づいた。指の力をゆるめると、手のひらいっぱいにかいた冷や汗が、空気を冷たく感じさせた。
牡羊は窓から斜めに差し込む光の下で、舞台を眺めながら、表情を厳しくしていた。
「なんだありゃあ……。馬鹿が卒業のお礼参りに、闇討ちでもしたのか」
光を求めて人々が壁際に集まってくる。そのうちの一人を見て牡牛は驚いた。一人の女子が居たのだが、彼女は首のあたりに大怪我をしたらしく、そこから血を吹き出させていたのだ。
よろよろと歩きながら彼女は言った。「噛み付かれたの! か、噛み付かれたの!」
一瞬、思考停止に陥った牡牛に対して、牡羊は言った。
「大丈夫だ牡牛。俺が居るから」
そうなのだ。牡牛の知る限り、牡羊は強い男だった。あのときも、自分だって怖いに違いないのに、ひたすら牡牛を守るべきだと自分に言い聞かせて、それによって自分を奮い立たせていたのだろうという気がする。大丈夫という言葉を何回聞いただろうか。
そんな男が、たとえ自分が腐ったからといって、人に腐れなどと言うものだろうか。もし言ったとしたら、それはもう牡羊ではなくなっているのだ。友人ではない別の何かなのだ。
牡牛は納得し、目を開いた。
夜明けを告げる鳥の声が、耳に心地よく響いていた。嫌な感覚や、悪い気分はさっぱりと抜けており、体が軽かった。部屋は牡牛の出した汚物の放つ悪臭に満たされていたが、牡牛はその中に、いくぶん種類の違う、発酵による臭いを嗅ぎ取った。
牡牛は発酵のもとに近寄った。それは猪肉を塩漬けにしたタライから放たれたものだった。中を覗いてみると、タライには、塩に吸い出された肉の水分がたまっていた。それは牡牛の作業がうまくいっていることの証しだった。牡牛はバケツを引き寄せてくると、タライをかたむけ、中の水をバケツに捨てた。
牡牛の体は自然に動いた。体がいつものスケジュールを開始した。コーヒーを作り、今回は砂糖をたっぷりと入れて飲んだ。カーテンをひらき、部屋を掃除し、汚物とゴミを溜めたバケツを下げて外に出た。畑の無事な野菜をたしかめて虫を取る。大地はまだ雨水に濡れていたので、水やりを省略し、かわりに過去にゴミを埋めたところの土を掘って、それを肥料として畑に撒いた。そして土に開いた穴に、バケツの中のゴミと汚物と虫をあけ、埋めた。
ひととおりの仕事を終えてから、牡牛は考えた。これからは雨の日も気をつけたほうが良いと。「腐ったもの」はふつう夜にのみ活動するが、雨や曇りの日は例外で、知能の低いものが動いていることがある。ただ牡牛の住む公園は、日が差し込まぬほど暗い場所が少ないせいか、かれらの姿をそう見かけないのだ。おそらくあの、展望台の屋根からぶら下がっていたやつは、夜の間に、牡牛の気配を察して、上へ上へと登っていったのだ。しかし脳が腐って知能が低下していて、夜明けの気配を察することができなかった。だからそのまま陽光の射さない朝を迎え、のこのこと出てきた牡牛を襲ってきたのだろう。
生きている人間の居ない世界では、彼らも餌不足なのに違いない。貴重な牡牛を仕留めるために、また大胆な行動を取ってくる可能性もある。
牡牛は空を見上げた。太陽は出ているが、西の空が曇っている。
牡牛は午後の探索をあきらめ、展望室に戻ることにした。