暗い世界に、牡牛は居た。
この暗闇とあの暗闇の差はあきらかだった。こちらは静かなのだ。聞こえるのは鳥の声だけだった。暗い夢が終わったことを牡牛は悟り、寝床から身を起こした。大きく息を吐くと、いつも夢の終わりから始まる一日のスケジュールを開始した。
牡牛の朝は一杯のコーヒーから始まる。といっても使うのはタンポポの根だ。これを乾燥させて、炒って、つぶして、また炒ってからドリップしてコーヒーをつくる。牡牛の住んでいる土地は熱帯でも亜熱帯でもないため、本物のコーヒーの木を見ることはなく、従って種子を手に入れて栽培するということはできない。タンポポのコーヒーは、本物のコーヒーほどの味わいは無いが、それなりに美味い。
コーヒーを飲み終えた牡牛は、窓中を覆っていたカーテンを開き、朝日をいっぱいに室内へと取り込む。同時にこの高い場所から見える遠景を楽しみ、孤独と闘う。牡牛の住居は郊外にある公園の展望台で、そこからは近所の住宅街と、遠くの都市が見える。どちらにも人影は無く、人の気配も無い。早朝の新聞配達にはげむバイクも見かけなければ、高速道路を走る遠距離トラックのテールランプも、犬の散歩も、ウォーキングに励む老人も、なにも無い。なにも無い世界は、静謐で、美しかった。
牡牛は部屋を掃除して、ゴミをバケツにまとめると、大きなスコップを手に取り、非常階段の鉄扉をひらき、外に出た。鉄の階段を降りて、公園に降り立つ。
展望台下の大地は、すべて畑になっている。芋類、豆類、葉野菜、ハーブ。それらの畑を囲むようにして、まだ若い果実の木。すべて牡牛がこしらえたものだった。
牡牛はスコップで適当な場所に穴を掘り、バケツの中のゴミをいれる。そのまま空になったバケツを下げて小川に向かう。昔は公園ぶちを流れるドブ川だったそこの水は、今では綺麗に澄んでいる。牡牛は水をくみあげては、畑に運んで撒く。それを繰り返す。やっとすべての畑に水を撒き終えたあとは、野菜の葉から虫を取る。丹念に取り去ってはバケツに放り込み、虫をすべて集めたあとは、バケツの中の虫を、朝掘ったゴミ穴に放り込む。そして上から土をかぶせて、生きたまま埋めてしまう。
朝から昼までかけて畑仕事を終えた牡牛は、そのままスコップをかついでバケツをぶらさげて、住宅街へ向かう。すでに目をつけていた家屋があるので、歩みは確かだった。
そこは大きな家で、南側の広い庭いっぱいに面した窓の向こうに、リビングとキッチンが見える。塀には防犯のための鉄槍が植えられているが、違法駐車の車の上にのぼると、たやすく乗り越えることができるのだった。牡牛はその家に侵入すると、窓をスコップで叩き割り、リビングに入った。
豪奢なリビングに土足であがり、隣り合ったキッチンに入る。まずは冷蔵庫をひらく。酢やマヨネーズといった、腐っていないものを取り出してはバケツに放り込む。この家の主は薬品を冷蔵庫に収納する癖があったらしく、目薬やシップ剤が見つかった。それも頂戴する。野菜室の野菜はすべて腐りきっていたが、おかげでいくつかの種を見つけることができた。それも盗る。
そうして物品を物色し、牡牛はたくさんのものを手に入れることができた。特に嬉しかったのがコーヒーだった。まだ挽いていない豆を手に入れることができたのだ。
牡牛はリビングのソファーに腰掛け、窓の方を見た。日が沈む前に余裕を持って去らなければならない。しかしこの家の雰囲気が、牡牛を去りがたい気分にさせていた。
大型テレビの上に載った家族写真。壁にかけられた花の絵。この家の住人は裕福で、幸せな生活を営んでいたのだ。写真の中で笑っている女性はおそらく専業主婦で、働く夫のために毎朝コーヒーを豆から挽いてやるほどの余裕を持っていた。娘は大学で介護関係の勉強をしていたらしく、その教科書がテーブル横にまとめて置いてあった。食台で勉強をするなと怒られたりしたのだろうか? 家の主人の仕事は不明だが、毎日、帰宅後に缶ビールを飲むことを楽しみにしていたらしい。これほどの家を保持できるほどの収入を得られていたのだとしたら、たぶんとても忙しい仕事についていたのだろう。
牡牛はリビングの奥についたドアに目をやった。
ドアはガラス戸で、向こうは薄暗い廊下だった。
牡牛は、そのドアを開きたかった。開いて向こうに行けば、ここからは見えない部屋に、誰かが居るのかもしれなかった。助けを待って震えているのかもしれなかった。今も牡牛の動き回る物音を聞きながら、ヒトか、それ以外かを考えているのかもしれなかった。
しかしそうでない可能性のほうが高いのだ。誰も居ないならまだいい。だが別の何かが居る可能性もある。その何かとは、犬猫といった小動物であればいい。もっと大型のケモノであれば最悪だ。そして何よりも最悪なのは、この家の幸せな住人が、「別の何か」と化して存在している場合だ。
長い逡巡ののち、牡牛はソファーを立ち、家を出た。
取り込んだ野菜でサラダをこしらえ、マヨネーズをかける。貴重な肉の缶詰をひらき、缶の底に穴をあけた。それから、すり鉢でコーヒーを挽いた。綿のハンカチをフィルターにして、穴をあけた缶に敷き、挽いたコーヒーを詰め、湯をそそぐ。久しぶりの本物のコーヒーは、サラダとも、肉ともよく合った。舌の奥が痛くなるくらい濃い味がした。思わず出た自分の溜息でさえ、良い香りがした。貴重な味を惜しみながら、少しづつ、少しづつ飲み干した。
ふと気づくと、辺りは暗くなっていた。牡牛は急いで鉄扉に鎖をまきつけた。カーテンをしめ、寝床の位置に移動し、毛布にくるまる。そのままじっと動かなくなる。
濃密で静かな闇の世界が、牡牛は苦手だった。早く眠りに落ちたいと思ったが、この日はおそらく四肢に染み渡ったカフェインのせいで、うまくいかなかった。やがて遠くから何か、けものの吠える声が聞こえてきた。犬でも猫でも鳥でもない、牡牛の知らない生き物の声だった。最初は遠かったその声は、すぐに近くなり、展望台の下で動き回るものたちの気配がした。何かが鉄の柱を登っているらしく、床から物音が聞こえた。牡牛は震えた。震えながら頭を抱え目を閉じた。暗い世界にこだまする様々な声と音は、次第になつかしい、あの日の体育館でのざわめきと悲鳴に変わっていった。そうして牡牛はまた、同じ夢を見始めた。