教室のにぎやかさが、少しづつざわめきに変わってきた。
不安か、苛立ちのようなものが室内に漂いはじめ、それを言葉に直したのが、正直な牡羊だった。
「遅いな、タラコ」
タラコは担任教師のニックネームだった。唇がタラコなわけではなく、いちばん最初の自己紹介で、「好きな食べ物はタラコです」と言ったのがそのままあだ名になったのだ。
そして不安の苦手な双子が、楽天的な可能性を示す。
「職員室は職員室で盛り上がってるんじゃねーの。タラコのんびりしてるし」
「でも遅すぎねぇ?」
もともと授業時間などには少し遅れてくる癖のあるその若い担任が、今回は遅すぎた。
誰かが様子を見てこようかな、などと言い出したところで、放送が鳴った。
『校舎に居る生徒および保護者のみなさん。校舎に居る生徒および保護者のみなさんは、至急、体育館に集合してください』
同じことを2回繰り返して放送が切れた。
たちまち教室は完全なざわめきに包まれた。誰も意味が分からなかった。いま式を終えたばかりの体育館に移動する意味。なんの予想もたてられはしないが、ろくでもないことだろうという予感は自然に生まれた。
しかし他にはどうしようもなく、生徒たちはぞろぞろと廊下に出た。他の教室の生徒たちも、首をひねりつつドアから流れ出てくる。
牡牛も皆と同じく、眉をひそめつつ移動した。そんな牡牛のそばに、蠍が寄り添うように歩きつつ、言った。
「さっきの魚の言葉」
「ん?」
「間違ってる」
今の放送について考えていた牡牛は、思考の切り替えに時間がかかったようだった。
「ああ、うん。そうだな。俺も魚は、すごく特別なやつだと……」
「おまえは特別だ」
そのとき牡牛は、蠍の横顔を見つつ、なにか奇妙な、不思議な感覚におそわれた。
しかし理由がわからなかった。納得のできるなにかを見つけることもかなわぬままに、牡牛をふくめた3年1組の面々は、体育館に到着した。
牡牛たちは皆に別れを告げたばかりの場所に、また着席した。壇上を見上げつつ、他にすることも無いので、周りの人間と雑談をかわした。やがて保護者席にも娘や息子たちを待っていた親たちが座り始め、教員席にも見知った顔が並びはじめた。
教師たちは、みな生徒たち以上に、混乱した様子だった。不安は生徒たちと比べ物にならないほど強いようだった。タラコも普段ののんびりした様子など吹き飛ばした様子で、臨席の教師と必死な様子で語り合っている。
奇妙なことは他にもあった。窓という窓が暗幕でふさがれていたのだ。館内の照明も、舞台のもの以外は落とされており、薄暗かった。
蟹が後ろの席から、牡牛の袖をひいてきた。
「なんだと思う?」
牡牛は首を横に振った。まったく意味がわからなかったからだ。
やがて校長が舞台に上がった。スピーチ台につき、マイクの位置を調整する。
「アー。えー、みなさん。ちょっと緊急事態が起こりまして、落ち着いて聞いて頂きたいんですが、市のほうから連絡がはいりました。今、外は非常に危険な状態だということです。今、外は非常に危険な状態です。卒業式の生徒および保護者のみなさんは、このまま学校に待機してくださいとのことです。決して外には出ないでください」
どよめきが起こり、それが止むのを校長は待った。しかしいつまでも声は止まなかったので、校長はふたたび話をはじめた。
「静粛に。静かにおねがいします。詳細は不明なのですが、テロのようなものが起きているそうです。市民が無差別に殺傷されているということです。パニックというか、そういう状態にもなっているそうで、――落ち着いてください。そういうわけですので、取り合えず外がおさまるまでは、このまま待機ということで」
ひとり、ひとりが、思ったことを少しづつつぶやくだけで、それは声の津波になる。ざわめきに対して校長は、静止の言葉を語り続けた。
「落ち着いてください。静かに。こちらも詳細は把握していないのです。落ち着いて。静かにしてください。ええと、体育館が暗いのは、目立つのを防ぐためだそうです。建物を無人と思わせたいのだそうです。いいですか。これから暗くします。みな静かに待機してください。教頭先生、舞台の照明を落としていただけますか」
同じ言葉を繰り返す癖のある校長は、教頭が動かないので、ふたたび同じことを言った。
数秒後、唐突に、辺りは闇に包まれた。
しかしその闇は、混乱を大きくした。
あらゆる不平の声が闇を埋め尽くし、校長の静かにという声だけが声の海を突っ切って響き渡っていた。
そしてそれらすべての声を圧して。悲鳴が聞こえた。
周りの不平に耳を傾けていた聞き上手の牡牛は、悲鳴の方向を前方だと思った。
しかし続いて、牡牛の後方からも悲鳴が上がった。一瞬、辺りは静まりかえり、今度は右方から悲鳴。
方向の感覚がおかしくなったのかと牡牛は思ったが、次には明らかな、決定的な声が前方からあがった。
それは校長の絶叫だった。ウワーという彼の声をマイクは丁寧にひろった。そしてなにか、犬のような、ケモノのようなものの唸り声も。激しくなにかが争う音も。耳をきいんと刺すノイズとともに、校長の暗闇での悲劇をスピーカーは伝え、人々の心をかき乱した。
牡牛は、動けなかった。出来事の意味が、なかなか脳に浸透してこなかった。校長の断末魔の声も。生徒たちの混乱の声も。前後左右で蹴り倒されるパイプ椅子の音も。すべてが暗幕の向こう側で勝手に行われている演劇のように感じていた。肩に人がぶつかり、体がぐらぐらと揺れた。なんて怖い夢だと牡牛は考えていた。
そして牡牛は。――眠りから目覚めた。