船の上で溜息をつく。静かだ。牡牛は船の欄干にもたれかからせておいた。目が覚める気配はまったくない。
まったく、隠し事にさえ勘付かなければ、こんな暴力に訴えなくて良かった。あれだけは気づいてはいけない。弱った者に追い討ちをかけるような真似はいけない。攫うという行動の末に招いた問題点と向き合わせている内はまだしも、生死に関わるとなると流石に許容できない。
これで魚と蠍は助かったか。ある意味、最も助からなかったのだが、幸せそうではある。
(私にはわからないけど、まぁ、あれでいいんだろねぇ)
自分も牡牛も、もう魚と蠍に関わらない方が良い。
(でも、牡牛がここまで関わらなくて良かったとは知らなかった)
忘れていたのでも元々浅い関係だったのでもなく、正真正銘の初対面。それがどうしてここまで執着しだしたのかは知らない。知る必要もないと思う。最初に脅された日から、既に切羽詰った様子だった。何かあったのだろうとだけ予想がつく。
仰向きに寝ている牡牛は、枕もないのに昏々と眠り続けていた。無防備。
(防備と言えば、包丁が入った鞄なんて持ってたら混乱するね。危なそうな物だけ鞄から取り出して、私が頂いちゃうとするか)
…鞄の中は危なそうな物がほとんどだったしかない。それ以外はお菓子の空箱等のゴミ。
あどけないとしか思わなかった寝顔に白い目を向ける。
よく包丁で水面を切って遊んでいたのを思い出す。自分もやってみるかと船から少し身を乗り出した時、切ろうとした水面に自分の姿がはっきり浮かぶ。…遊ぶのはやめた。
牡牛が来たのは桜が折られる前の日であり、そろそろ桜が人を攫える時期にも終わりが見えた日でもあった。
射手を笑えない、牡牛も相当間が悪い。空になった鞄を閉じて、しばし考え込む。魚について勘付いたのはいつだったのか。牡牛と魚が会ったのなんて獅子の家に集まったそのたった1日で、しかもそこまで会話していなかった。誰かから聞いたのか。
魚達が言うわけがないし、蠍も知らなかったようだ。双子の傍にはいつも射手がいたから内緒話はできないはずだし…。
(…該当者が1人しかいないんだけど…今となっては怒っても仕方ない…はぁ)
どうして、そいつの元に牡牛を帰らさなければいけないのやら。自分の方が片手間ででも、怒らせたり悲しませたりする事なく幸せにできる気がしてきた。
しかし、憑き物が落ちたように眠る姿が目に入る。水の中に放り出されたような心地がした。
着物の下で鳥肌が立ったのがわかる。我ながら滅多な事を考えるものじゃない。
(でも私の事、大好きって言ってなかった?邪魔をしないから大好きと言われたんだったか)
じゃあ邪魔する自分は大好きではない、のか。
だったら単なる桜として、これからも愛でられる方がよっぽど良い。
(…こうして考えてるのすらおかしいよねぇ。早く帰してあげないと)
傘の骨と骨を、少しずつゆっくり広げる。くるくる回転させる。外が晴れていて良かった、牡牛がここに来た時は今にも雨が降りそうだった。意識のないままどしゃぶりの中に放り出す、なんてできない。
「お別れか。あっけない」
開いた傘を宙に投げた。傘はふわふわ目の前に落ちて自分の視界から牡牛を隠す。傘の柄と船の板がぶつかる音がした。
目を開くと、地面に散った花びらが視界に入った。
桜の木に凭れかかり眠っている自分も不思議だが、それよりも不思議な夢を見た気がする。
「なんか良い夢見たような」
どんな夢だっただろう。立ち上がりつつ、真剣に考え込んだ。何が出てきたのだったか。
「…茶碗蒸し食べて冷たいお茶飲んだ…」
ひとりごとを呟いた時、丁度上にあった葉が頭に当たった。この桜は年中葉をつけている。今当たったのは結構大きな葉だったのか、なんだかツッコミ入れられた気分になった。
更に考え込んだが思い出せない。というか首が痛い、寝違えたかもしれない。
よくわからないが居ても仕方ないので家のある方へと歩き出す。鞄には空のペットボトルとゴミしか入っていない。軽い。そうだ、自分は散歩をしていたらここで寝てしまった…気がする。
空き地を出る前に、桜をふり返った。寒い季節でも咲いていたこの桜を、幼い自分は「すごいな〜〜」と思ったものだ、懐かしい。更に半年以上咲いているのを見て「えらいな〜」、葉が散らないのを見て「かっこいいな〜」。桜を見た人の感想にしては何かがずれていると今の自分は思う。
でも正直なところ、それは今もあまり変わっていない。自分にとっては特別なものだ。
(また来ようか、次はお花見がいいなぁ)