夜。駐車場へと歩く途中、蟹が衝撃の憶測を語った。
「…すみません、何がどうしてそうなった」
「何って、天秤先生が牡羊くんから『天秤ちゃん』と呼ばれていた理由でしょう?」
不思議そうな顔をされる。冗談を言ったわけではないようだ。
「牡羊くんが山羊くんを、『兄ちゃん』と言っていたのと同じ感覚かと思いまして」
「いやいやおかしいですよ」
自分は先生であって兄ではない。先生だから、今もこうして学校から帰ろうとしている。
「そうですか?でも同姓を『ちゃん』付けで呼ぶ事は、牡羊くんには珍しかったような」
「まぁ…名前呼び捨てが多かったような…それ以外だと、敬称を付けるか…。あれ、じゃあ蟹さんの呼び方は例外ですか」
「私のは、山羊くんがそう呼んでたのが移っただけかと」
「じゃあ私、どこかで天秤ちゃんとか呼ばれてたんですか?え、初耳」
「呼ばれてない…と思いますよ?第一、牡羊くんって先生にはちゃんと『先生』と呼ぶ生徒だと思いますしねぇ。もし呼ばなかったのを知ったら、叱る人もいました。見たでしょう」
山羊か。あれは礼儀に厳しそうな人だった。
「山羊くんは今年、卒業して実家を出たわけですが。天秤先生がここに来たのも今年からですよね」
3月と4月、丁度入れ替わりになった事になる。
「あの…私と山羊くんでは、色々と違いませんか?」
「違いますね。外見も性格も雰囲気も実年齢も全然違います」
…今サラッと実年齢って言いましたね。
「でも良いんですよ。見た目年齢と保護する立場というのが同じなら」
「…先生ですからね。生徒を保護する立場ですね」
生徒を置いて逃げかけたような先生だけど…。生徒に保護されるような先生だけど…。
「お兄さんが卒業したのと入れ替わりで、兄弟でもおかしくない歳の先生が来ましたから。本人すら無意識の内に、少し重ねてたんじゃないかなって」
「私、実の兄の代わりですか…」
「まぁ…家族が恋しいだけですって多分。牡羊くんが話す内容、ここのところ半分以上が山羊くんについてでした。前の土日には山羊くんの家に押しかけてましたし」
「むこうが呼んだんじゃないですか?ホームシックはよくある話ですよ?」
「だって牡羊くん、荷物の片付けが終わっていないので手伝いに行くって言ってたんですよ。
一方で、山羊くんは卒業する日、もう明日から向こうの家に行くって言ってて…。
これじゃあ、今から大体1ヶ月には実家を出た計算になる」
それは…呼ぶなら春休み中か、もしくは連休中に呼んでいるのではないだろうか。
「それに、あの案外背伸びしてる子が部屋の片付けを理由に呼ぶものですか。もっと上手な言い訳するはずです」
実は独占欲が強いのかもしれない。山羊に関して、やたら断言してくる。
あと、もっと上手な言い訳をするだろうからって…それ、褒めてないです。
「…これ、前に言いませんでしたっけ?」
「え?初めて聞きましたけど…それ、いつですか?」
「門の傍で、天秤先生が牡羊くんから逃げてた時」
あぁ。あれは途中で蠍が来て、呼び方に関する話題が打ち切られたのだった。
「言われてません、言われてません」
「い、言った気になってました…。でも今は呼び方が直ったのだから、良かったですね」
「どうしてですかねぇ」
「保健室で、天秤先生と山羊くんが並んだからとか。実際見て、あー全然違う、って」
そういえば、やたらと自分と山羊を見比べていた。
(でも、それがきっかけかなぁ?廊下で牡羊くんと会った時、先生って呼ばれたのは…)
あの日の朝、自分は牡羊から嫌われた。
あそこで一度、幻想が砕け散ったのではないだろうか。
(あの時の私は、保護してくれる人と見なされなかった…って事になっちゃうけどね)
『先生』と呼ばれても嬉しくなかった、困惑が先にきた理由がわかった。裏表なしの嫌悪を正面からぶつけられれば、当たり前の事だ。
しかし、もし嫌われたままだとして、牡羊が人を見捨てる姿が全く想像できない。結局そういう子だ、多分だけれども、そうだ。
…これでは山羊に関して断言する蟹の心境と、あまり変わらないかもしれない。
「って、全部蟹さんの憶測じゃないですか」
「だから憶測って言ったじゃないですか」
(結構本気でこれだと思ってるんじゃ!?)
「それじゃあ天秤先生、また明日…。いや、その前に少し良いですか?」
「良いですよ?」
「私の車って、何か変なところがありますかね?」
車の遠隔キーを押しながら言った。ロックが解除される、ガチャリという音がする。
運転席のドアが開かれたので、そこから覗く。…綺麗に整頓されている。変なところはない。
あえて言うなら、独身男性が使っている雰囲気が少しもないところだ。やっぱり、神様が与える性別を間違えたのだと思う。
「変じゃないですけど、どうかしましたか?」
「いえ…車に乗せた時、落ち着かない感じだった人がいたので」
「別の理由で落ち着かなかったんじゃないですか?」
「あ、そっか…うん。ありがとうございます」
誰だろうか。最近だと山羊くんを乗せたはずだが、そんな落ち着きのない子には見えないし。
それとも助手席だけおかしいとかか。
「…ん?何か落ちてません?」