自分の家に着くと、全身の力が抜けた。そのまま座り込んでしまう。
「あぁ、びっくりした。あんな怒らせるような真似やめてよね」
「今更だなぁ。危なくなったらお願いね」
「私頼みか!」
どのみち、そんな事は出来ないが。牡牛を放って自分だけ逃げたと聞けば冷たい目で睨みそうな人を知っている。養育場の家畜を見る目で言われそうだ。『悪いけど解体して涼しい所に行ってもらう』という具合の。
「ねぇ、何か飲みたい」
「貴方は本当に遠慮ないな。確かこの辺の船に…あった。はい」
「冷たい飲み物がすぐ出てくるのって良いよねぇ」
思いきり良く飲み干すと息をつく。鞄が肩からずり落ちたのを一瞥し、そのまま放置していた。
「射手も可哀想に。もう少しのんびりする時間があったら信用されてただろうに。性格で見れば相性良さそうだったんだから」
「じゃあ、それを言ってやれば良かったのに」
「言って会話してる暇なんかありますか。あいつはいつも双子を横に連れてたんだもの。それに、人間を攫ってない私が助言してもね。で、双子の元気が出始めた頃に貴方が出現」
「タイミングの悪い奴だね」
ゆったりとしたペースの心地よさに誤魔化されそうになるが、引き込まれたら終わりだ。
「ご存知の通り、貴方が相手にしてるのは私の友人達なものでね。人間ひとりに出来る事なんか高が知れてると思ってたけど、ちょっと不安になってきたよ」
小さな問題を表面化させただけなのに。まさか本当に破局する者が出るとは。
(そりゃあ射手も消耗してただろうけどさぁ…)
「桜を破局させるに刃物はいらないね。事実をいくつか見せればいい」
(言っちゃったよこの子…)
「破局させる、ねぇ…。鬼か、貴方は」
「人間だよ。あぁ、でも、蠍先輩は難しそうだなぁ…」
嫌な汗をかく。あの日の部屋分けで牡牛がよく見たのは神経が鋼な蠍の方だった。もし魚をよく見ていたら、射手達より先に終わったのは魚達だったかもしれない。
(あれは絶対、知らせないでおこう)
だが、乙女が違和感を感じていた。時間の問題かもしれない。
(それより先に、獅子達にタイムリミットが訪れるだろうけど)
牡牛が鞄の中へと手を伸ばす。包丁があるのを確かめていた。刃が光るのを見ると安心したように撫でる。反対の手で鞄の中をゆっくり弄っていたのだが、やがて、
「ん?」
この場でひっくり返すかという勢いで鞄の縁を掴み、しばらくすると苦笑いして手を放した。
「…ちょっと疲れた」
横に、横にと、座ったままずり落ちるように倒れた。支えようと手を伸ばしたのだが、間に合わず崩れる。
ただ横になっていた。
それはもう、死んだようにだらんと。一瞬心配した自分の気持ちを返せと思う。
「冬にも咲いてたんだけど、桜だよね」
一瞬固まった後、数メートル遠ざかる。
(びっくりさせるな!!)
「急にどうしたの」
「うーん…水瓶見ながらダラダラしてたら、急に思い浮かんだんだけど…何だっけ?」
「私に聞かれても。まったく、数秒くらい私を安心させてほしいものだよ」
こいつめ…。鞄の中身を処分してしまおうか。でも後が怖い。それに、ここで面倒見る存在がいなくなるのは死ねと言っているようなものだった。そこまで恨んではいない。
それにしても、どこかで聞いた覚えのある言葉だ。
『これこれ、すごくない?冬にも咲いてたんだけど、桜だよね?』
(あ)
自分を見つけた後、乙女を引っ張ってきて言った言葉と一致する。冬桜というものを知らなかった牡牛の子供らしい喜びを、二度咲きの桜というものを知っていた乙女がぶち壊したのだった。
(見てたら笑えてきて、あれから当分覚えてたんだった)
今は違う意味で笑える。
「今週中には、12年に1度の期間も終わるでしょうよ。待ち遠しいね、ねぇ、牡牛」
返事はせず、代わりに柔らかい笑顔を浮かべ、包丁で水面を切って遊び始めた。