『天秤せんせー、俺、そんなに重症そうに見えますか?』
倒木事件の被害者:牡羊が、途方にくれた顔で言った。
『私はお医者さんじゃないからねぇ…』
『知ってますよー。医者からは軽傷って言われました。でも周りが大丈夫かって言うんですよ』
『それは言うでしょうよ。諦めなさい』
本当は倒木ではなく、真面目に説明したら頭を打ったと思われそうな事件だった。仕方ないので倒木と言うより他ないのが疲れを加速させる。
それでも、話す相手がいるのはそれだけでありがたいと再認識した。
…誰も怪しんでいないだろうか。ただの倒木で納得してもらえたのか?
それを聞くべく、事務室に入ったら。
「…大丈夫ですか?」
事務員の半数が、幽鬼のようにフラフラしている。話しかけた蟹も顔色が悪かった。
「大丈夫ですよー。それより、天秤先生も牡羊くんも大変なんじゃ…」
「…何があったんですか」
「…倒木の後処理です。電話とか予算とか色々」
倒木で納得してもらえるかわりに、別の意味で困る事になっていた。
微妙な空気を払拭するべく、昼食時なのに何も口にしていなかった蟹を食事に誘う。そうしたら、手作り弁当片手に食堂へ連れてくる形になった。かえって悪い事をしたと思ったのに、蟹としては大歓迎だったようだ。
まぁ数十分くらい仕事から解放してあげられるならそれでもいいかと思い直した。
食堂の隅でひっそり喋る。
「倒木の根元に近寄れないようロープを張ってるのも、今週までですよ。休日には業者の方に来ていただけます。後にはまた桜を植えようって声が多いのですが…まずは今の処理です」
予算的にも、と小声で付け足されたのは聞かなかった事にしよう。そうですか、と相槌を打ち、
「あのー、もしかしてご結婚されてますか?」
「そんな気配もありませんよ」
ズシンと空気が重くなる。どうやら触れてはいけない部分のようだ。
「べ、弁当を手作りする男性はそんなに見ないなって思いまして…」
「そうですかね?良かったら何か食べますか?」
卵焼きをひとつもらった。食べた。手元にある定食もういらないやと思った。
(神様は蟹さんに与える性別を間違えたんじゃないだろうか)
「牡羊くん、本当に怪我は大丈夫ですか?」
「え?はい、体育にも休まず出たそうですよ」
手の甲に巻かれた包帯を除けば、他は絆創膏もいらないような掠り傷のようだった。あんなに心臓に悪い血塗れの姿をしていたくせに、と思わなくもないが、何よりだ。
思い出すと、心臓が体中に響く音をたてる。
「すみません」
「何がですか?」
「倒木」
「気にしすぎですよ、あれは別に蟹さんのせいではないでしょう」
もう何度謝られたか。ただの倒木ではない、だから顔を伏せなくていいと言えたらいいのに。
「いえ…あの桜が危なそうだって、わかってましたよ。それを費用や入学式や、理由をつけて診てもらうのを先延ばしにして。さっさと措置を施せば良かった」
それも何度も聞いた。専門家でもないのに木がどうなってるかなど、わからなくて普通と答えている。
「ぼんやり考えてる暇なかったんですね。何かをしなかったら色んな人に迷惑がかかるんですね」
「ぼんやりしてないですって」
「いえいえぼんやりしましたよ?天秤先生、私に親戚の話したのを覚えていますか?」
箸を落としかけた。何とか持ち直したが、ご飯に箸を刺そうとしたような不自然な格好になる。
牡羊に蟹は物覚えが良い方かと遠まわしに聞いた事を思い出す。悪くないと思う、と返事された。
「そんな話もしましたね」
「えぇ。あの話が何だか気になって仕方なかったんですけどね。蠍って子でしたっけ、3年生で…
あれからぼんやり記憶を辿りましたけど、やっぱりいませんでしたよ」
「だから、あれは別の人から聞いた話を間違ってしてしまっただけです」
「それは…そうですけど気になったので。でも、考えても考えてもわからないんじゃ仕方ないので考えるのやめて、自分の出来る事をやりますから…」
やめてもらっては困るような、そうでもないような。
「うわぁ…やっぱり仕事疲れました」
「お疲れ様です」
「もう食堂に居たいなぁ…食堂で働こうかなぁ…そしたら、色んな生徒さんに覚えてもらえますかねー」
「いきなり転職考えないでください…で、覚えてもらいたいんですか」
「それはもう。卒業した後も思い出してもらえる方が羨ましいんです。事務員って、卒業した生徒
どころか在学中の生徒も覚えていないでしょう?」
「牡羊くんと山羊くんは覚えているみたいですよ」
「それはちょっと特別な例というか…。そもそも山羊くんが私を覚えていなかったら、牡羊くんも私を覚えていないような、そういう知り合い方をしたので」
兄が弟を紹介した、とかだろうか。言われてみれば、事務員と仲の良い生徒というのも珍しい。
「出来れば覚えていてほしいんですよ。それも在学中の3年間限定ではなく、一生」
「それは教師でも生徒でも難しいんじゃあ…」
「願望です。でも3年経たずに居なくなられたら、それ以前の問題ですよね」
遠まわしに、防げたかもしれない事故で牡羊が死ぬかもしれなかったと言いたいのか。
そんな『かも』の話までは全否定できなかった。自分だって牡羊が死ぬんじゃないかと思った。
「そうですね」
独特で物静かそうな子と話した。
『私は2年の担任だよ。今年からこの学校のお世話になってるんだ』
『…よろしくお願いします』
『こちらこそ。3年の蠍くんだね、覚えた』
『ん、そう仰ったなら、忘れないでくださいね?天秤先生』
『そうだね、言ったのだものね』
『約束ですよ?さようなら』
あの子も自分を忘れるなと言った。血の繋がりがあるせいだろうか。結構似た2人だったのかもしれない。