星座で801ログ保管庫出張所

桜に攫われる話 056

水溜りが騒々しく弾ける音が耳元でする。
弾けた水は倒れこんだ自分に容赦なく降り注いだ。ここがアスファルトの上な割に痛くないのは水溜りのおかげか、打ち所が良かったのか。
牡羊がこちらに手を伸ばしていた。手を差し伸べてくれているのかと思ったが、すぐに突き飛ばされたのだと気づく。目に怯えに似た色がある。一体何をするのかと言いかけ、
「え」
自分が立っていた位置に、木の枝が伸びている。桜はこんなに枝が長かっただろうか。
強い風が吹き、寒いと感じた途端に頭が働きだした。同時に見た物を拒否した。
その場が1番大事だ。場があるから人がいれるのだと思っている。場の雰囲気を良くするためなら多少批判されても頑張れる。自分は集団を同じ場に居させる事が出来るだけの能力があると自負している。
じゃあ、その『場』が自分から崩れたら、どうしよう。
伸びてきた枝が音を立てるのを聞き、ようやくその場から立ち上がった。
「何やってんの」
「何って」
「誰かに知らせにでも行けば!?」
「何言ってんの!?」
逃げられる位置にいたくせに、誰かを助けるために逃げられない位置に飛び込んでくるような子を置いて行けるか。こんな「俺はいいからお前は逃げろ」をされても喜べない。
「残ってどうする気!?」
「知るかっ!!!」
もう1回突き飛ばされる。倒れなかったかわりに、牡羊からもっと遠ざかる。牡羊も桜も、自分が作ろうとする空気を容赦なく壊す。
「役割分担すんの!天秤ちゃんは誰かのとこ行けばいいんだよ!さっさとしてよ!」
「2人で行けばいいよ!」
「やだ!!!」
言いながら枝を掴み折る姿を見て、手伝おうとしたが別の枝が動くのを見て後退りした。あ、自分は牡羊みたいな事できないと思った瞬間、
「すぐ戻るから」
人を呼ぶ。その方法でなんとかするしか思いつかなくなった。
「殴る」
後ろで牡羊のそんな声がしたような、しなかったような。
校舎に向かって走る途中、放り出されたカメラと傘ふたつが見えた。
運動場を見ると人っ子一人見当たらない。何だって今日はこんな酷い雨なんだろうか。もう屋内しかない。
でも職員室は遠い。どの部屋に誰がいるだろうか。そもそも誰のいる場所を目指せば良いんだろうか。
その疑問に行き当たると、濡れた体が鉛のように重たくなった。寒さが蘇ったのより背筋に悪寒が走った方がゾッとした。
(…これ私が逃げてるだけじゃないの?)
逃げるのは生存本能だと聞く。逃げるが勝ちという言葉も知っている。逃げたおかげで助かったという話もある。
それについて考えるのをやめた。結論が何かと思うと桜より怖い。とにかく走ろう。そう思うのに上手く前に進めない。
(人を呼ぼう、誰でも、誰でもは良くないけど、でも沢山呼べば、何人呼べば、時間は)
こうなると知っていれば…いや、別に変わらなかったかもしれないけど…とにかく、あの元気さをこういう方向に使われるなんて嫌だろうが。
生徒が帰宅した学校は暗く静かで気が遠くなってきた。焦って効率の悪い探し方をしていると自分でもわかるのに、人気のない廊下を見ると絶望感に襲われる。
どんどん息だけが上がる。助けて欲しい。記憶が消える前に助けを呼びたい。
「…誰かいない!?」
「え?…え、誰?」
頭上から小さな声が聞こえる。少しずつだが、微かに足音もした。探しているのにどこへ行けばいいのかわからないのだろう、足音が違う方向へ向かいかける。
「あ、あの…!」
廊下の向こうにある階段を蟹が降りて来た。帰ろうとしていたのか、鞄を持っている。こちらを見ると訝しげな表情が驚愕した表情に変わった。おろおろとこちらに近づいて来る。
「ちょ…天秤先生、どうされたんですか。傘は?」
この緊急事態にどうして傘なのかと思ったが、そういえば全身が濡れていたのだった。
「あ…の…」
呼吸を整えていざ喋ろうとしたら、あの非日常を現す言葉が見つからない。
「牡羊くんが門の傍にいて…桜が…」
「桜…」
最初は話が見えないという風に首を傾げていたのが急に青ざめた。