花が光ったと思うと、蠍の周囲は暗闇に包まれた。
「…桜?」
口にしてみると、何だか変な気分だった。呼び方がこれとは。自分はあの子の名前も知らないのだなと顔を曇らせてしまう。
「傍にいるから。ごめんね、少し待ってね」
近くから聞きたい声が聞こえ、その場に反射する。どうやら自分と桜は密閉された場所にいるらしい。
斜め上を見る。何か光るものがある。それが花と認識できるまで、そう時間はかからなかった。
木で出来た壁から桜の枝が何本か生えていた。花がひとつひとつ、ゆっくり場を照らす。あたりの光景が徐々に浮かび上がってくる。
木の中へ和室にあったものを持ち込んだような、そんな所だった。
円形の間もドーム型の天井も木だ。目が慣れてくると動こうとして、「少し待って」と言われたのを思い出し、じっとしている。
「見える?」
傍にいるとの言葉通り、桜は蠍の横に立っていた。ここは暖かいのにマフラーを外さない。
薄暗いものの、
「見えるよ」
「よかった」
「これ、靴はどうするべきかな?」
「うーん。とりあえず置いておく?」
棚に近づき、ついていた戸を引っ張っている。ここに入れろと言いたいらしい。中にあったものを寄せて無理矢理作られたスペースに靴を入れる。戸を引きながら桜はどこかと別方向を向くと、座布団を2枚取り出し敷いているところだった。敷き終わるなり、その内1枚の上に座ると、こちらを向いて手招きした。
「さっき思ったのだけど、何て呼べばいいのかわからないのは不便だね」
座りながら、自分もそう思った、と口には出さず頷いた。
「蠍が、私の名前だよ。12年に1度、桜が5人の人間に…関わると言う話を聞いたので、ここに来た。
花見客が随分手荒な真似をしたようだけど、痛む所はない?」
「あぁ、ううん、大丈夫だよ。ところで」
息遣いが聞こえるほど顔を寄せると、
「さっき、桜って呼んでくれたけどね、桜の木は沢山あるじゃない?だから僕の名前を知って?」
「是非、教えてほしい」
「魚。呼んでみて」
「魚。初めまして、こんばんは」
「こんばんは!あ、困るかもしれないんだけど言っていい?」
「うーん…。言われると困るのか…どうしようか」
「じ、じゃあ我慢する」
内容も知らないのに言うのをやめられたというのも、それはそれで困るのだが。
「承諾するかはともかく、とりあえず言ってみなさい」
「君の名前、聞いていい?」
「そんな話題かい…」
「名前だよ!?そんななんてものじゃないよ!?」
それはそうだが、身構えた内容が自分の名前。同じ反応する者は沢山いると思う。
反論するでもないので今は置いておくが、同じ事が何度も繰り返されるようなら別の話だなぁと真剣に考えた。
ともはれ、こちらの名前を伝えないのも随分と不便だ。
「蠍だよ」
「蠍君だね!」
満面の笑顔を向けられる。
「そういや、ここってどこ?」
お互いの名前も判明したところで、少し現状を把握しておく気になった。
「さっきの木の中というか…僕が住んでる所」
「家ってことかな」
「家なんて皆好きな場所に好きなように作るけど、僕の場合はそうだよ。木の中にもうひとつ場所を作ってる感じ」
「へぇ、同じ桜でも魚自身や家は結びついてないんだ」
花見客を思い出し、イコールじゃなくて本当に良かったと安堵した。
「そうだねぇ。完全に同じではないけれど…。ここは僕が作ってるから別として、木は…。僕か木のどちらかに何か起きたら、どちらかに少し影響が出るかなぁ」
前後撤回。影響が出るならダメだ。
「…僕はこの通り動けてるし、家も生活できる場所としてここにあるよ」
考えを先読みされたのか、魚が落ち着いてくれと宥めてきた。
「それなら何よりだけれどねぇ」
やはり、あの場で警察に通報しておくべきだった。
「……」
今から自分であの場に戻るのは、無理そうだ。どうやって来たかすらわからない。
そうなると、魚の危機は蠍の危機だ。他人事ではない。もはや花見客はどうでも良くなってきた。
「ねえ、蠍」
隣にいる魚がこちらに横目を見送る。
「突然こんな所に来て、怖いかもしれないけれど」
「知ったからこそ居るんだけど」
しかし、本当に行方不明者のひとりになるとは。突然、皆の記憶から消えるという事態を今すぐ受け入れられるほど悟ってはいない。下校する際に親戚に会うという偶然も素晴らしい幸運に思えてくる。こんな事なら蟹には、事情を話して別れの挨拶でもすればよかった。どうせ忘れられるからこそ最後にそれくらいしておきたい。
(自分から来たんだけどねぇ…)
おまけに、魚は有無を言わせず攫ったのではない。逃げたいなら逃げたいと言う時間はたっぷりあった。言えば逃がしてくれるかもしれない相手でもある。しかし自分があの場でとった行動は、少なからず好意を抱いている者への行動だろう。
(怖いのは公園に来る前の自分だよなー。桜の話を気に入ってたくせに、本当だった場合についてを軽視してるというか。こうなってから色々考えても変わらないけどさ)
成程。双子、ホラーとはこの事か。
「話を知ってるなら早いんだけどね、これ、すごい確率なんだよ」
「確率?」
後で考えよう。今は魚の話に集中する。
「そうそう。この年に、あの学校に、好きな人に、逢えて好かれるのは、すごい確率」
「あぁ、それはわかる」
身じろぎして近寄ってくる。衣擦れの音がして、
「僕はすごく幸せ者なんだよ」
気持ち良さそうな声と嬉しそうな笑顔で抱きつかれる。自分も間違いなく幸せ者だ。それは間違いない。
その幸せが突然すぎるのが問題だ。
『その桜の話、随分と気に入ったんだね』
『やっぱり蟹さんも、怖い話だと思いますか?』
『誰かいなくなるのは怖いねぇ。だけど蠍くんが気に入ったのなら、どうしようか。好きなものを嫌いになれとは言えないしな』
『…前、親戚に縁談の世話されかけた時も似た事言ってませんでした?』
『それは向こうも冗談で言ってたでしょ。私もそんな歳じゃないし、それはそれとして』
『…蟹さん、私より結婚遅くなるとかありそうだと思いませんか?』
『え!?そこまで!?そんな遅そうに見える!?』
『勘ですけれど、残念ながら』
『いやいやいやいや流石に…さすがに…それ実現したら肩身が狭い…』
で。どうしようかって、どうするって言おうとしてたんですか。
最後に半分本気半分冗談を言い、碌でもない話で終わってしまった。
「…あれ」
思わず、魚の髪を撫でる手が止まる。視線を感じた。雰囲気に浸って気づくのが遅れた。
おまけにさっきより明るい。
「…魚、あれは知ってる子?」
何だか光が強いと思えば。真上に色とりどりの何かで出来た別空間が、ぽっかり空いている。
その空間に照らされる形になっていた。
それより問題なのは、金縛りにあったように動かない、宙に浮いた男だ。
「え?あ、射手だー。うんうん、知ってる子。友達だよ」
「お、お邪魔します…」