桜が描かれた襖絵を、和紙の照明がぼんやり浮かび上がらせる。壁があるべきところにあるのは真っ暗闇だ。時折落ちてくる花びらが畳より下には行かないのを考えると、闇の中を歩ける可能性もゼロではないのだろう。確かめる勇気はないが。
柱の傍からこの光景を見る乙女は、眺めを楽しんでいるのではない。現実逃避を図ろうとしている。
扇子の音がした、と思った次の瞬間居たのがここだった。畳だったのでとりあえず靴を脱いだ。どうして真っ先にあんな行動に出たのか。少しでも落ち着こうとして常識的かつ日常的な思考回路になったのか、単に驚く気力がなかったのか。とりあえず靴はハンカチを広げた上に置いてある。部屋の中央にいた桜は、いつの間にやら履物を脱いで素足だった。履物がどこに行ったのかは知らない。
「自己紹介が遅れたな。俺は獅子だ」
ちゃんと自己紹介されるとは思わなかったので、少し面食らう。
「好きに呼べ、獅子様でも旦那様でも主様でも」
(全部『様』かよ)
「お前も名前くらい言え」
「……」
鞄から生徒手帳を取り出し、ページをめくる。
「……」
「乙女か。へー。あぁ俺と生まれ月近いな」
(誕生日あるんだ)
「なぁ乙女、口が聞けねーってわけじゃねぇだろ?喋れ」
「…ここはどこなん…だ」
思わず敬語になりかけるが、『様』扱いを否定したくなりやめる。
「どこって、俺の家」
「家!?よくわからないけど向こう花降ってるけど、これ家!?」
「まぁ俺だからな」
得意気だ。どうして得意気なのか。家は家主に似たのだろうか。
「お前ちゃんと声出せるんじゃねぇか。最初からそうしろ」
偉そうな口調だが内容は間違っていない。そこは言い返せない。しかし、
「いきなり連れて来ておいて、驚くなとでも言うのか」
「何だと?良いだろ、この家」
確かに個人的には、状況が違えば泊まりたいと思える家(?)である。
「家に文句はない。そうではなく…」
ここでやっと、本来最初に行き着くべき事に行き当たった。
「さっき居た場所にはどうやったら戻れるんだ」
「ん?どうして戻りたい?自分から近寄ってなかったか?」
物凄く痛いところを突かれた。
桜の所に自分から来たのだった。話は聞いていたし、牡牛も色々言っていた。攫われる気はなかったと主張するのは簡単だ。ただしその後、己の不注意や思い込みと向き合う流れになる。
何より獅子にとって、紛らわしい行動をとったようだ。逃げたい相手に近寄りはしない。
話せば話すほどこちらが不利になる気がする。この状況でそれは避けたい。言いこめられなかった場合が怖い。
(怖いと言えば、俺は人の記憶から消されてるって事になるのか?数十分前まで牡牛と居たのにか?
何だこれ。嫌だ。とにかくここに居る場合じゃないんだよな?)
怖くても、極限状態は人を行動させた。
「え?おいこら!」
逃げる。
鞄を持ち直すと襖に手をかけ、走り出した。
襖の向こうにはまだ部屋があった。獅子はここを家だと言っていた。ならば出入り口はあるはずだし、空間だって有限のはずだ。…靴くらい持ってくればよかった。家とは走りにくい場所だったのか。
じゃあ地面らしきものはある暗闇に向かおうかと思うも、横目で見るとやっぱり怖い。方向感覚を失いそうだ。それでは意味がない。
同じ行動を取るなら家にしよう、そもそも家の中から外に出るものだ、普通は…。
畳の上を走り襖を開け、畳の上を走り襖を開け…を数十回繰り返した時、思い直した。
(あ、もしかして、キリが無い?)
大体、どうして持ち主が非現実的な家に現実を求めているんだ。この期に及んでまだ常識を捨てていなかったのか。ところで今、家のどのへんにいるんだ。
冷や汗が出た時、後ろから獅子が追ってくるのにも気がついた。こっちは全力疾走しているのに、向こうは何だかそうでもない。
走りながら様子を見ると、獅子は首を傾げたり唸ったり、走りながら考え中だった。
「これが浜辺などで発生するという『捕まえてほしい鬼ごっこ』か?」
「勘弁してくれ!!」