星座で801ログ保管庫出張所

桜に攫われる話 010

(案外あっさり着いてしまった…)
徒歩では日が暮れる頃に着くのではないかと心配したものの、そうでもないようだ。東の空は完全に夜だが、西には夕日が輝いている。人の気配はしない。子供は家に帰り大人は乗り物の中か建物の中にいるような時間。
乙女は目当ての桜に向かっていた。この辺りでは最も大きな桜だ。
庭園の出入り口付近に、それは立っていた。
まだ幹の側まで行ってもいないのに、頭上を花が覆ってくる。近づけば近づくほど分厚くなる花々が夕日を遮り、妙な迫力のある薄闇におそるおそる近づくことになった。風が吹く度に、かろうじてだが夕日が届く。
(なんか…かえって頼りないな)
それでも歩くのをやめない。
気になるなら、これは単なる作り話だと。趣味の悪い奴が悪ふざけしたのだと、それだけわかればいい。
自分はこういう話は信じていない、そんな事があるわけないから。
(何も起きない。何も起きない)
あるわけないから、何も起きなくて当然だ。
木の傍に来ると、達成感と脱力感でそのまま座り込んでしまった。
冷たい風に花びらが舞っている。寒い。しかし、
「綺麗だなぁ」
落ちてくる花びらを見た素直な感想だ。歩くの疲れたしこのまま眠りたいなどと考え始め、
(……あ)
弾かれたようにその場を立ち上がった。
ひんやりとした風に吹かれ、花びらはくるくる弧を描く。
(まだ風は冷たい。時間帯を考慮してもだ。なのに)
どうしてこんなに花びらが舞っているんだろう。
もはや花吹雪と言っていいものが自分を中心に回っている事にも気づく。来た方向を振り返る途中、花と花の間の間に夕日の赤が見えた。本当に綺麗だった。
『俺はそういうの、よくわからないけれど。わかりたいわけでもないから』
牡牛の笑いを含んだ声が蘇る。
(俺だってそうだ!ただ、わからないままにするのが中途半端で嫌だっただけで!)
自分の考えは正しいと思っていた。なのに、心のどこかで話は本当かもしれないと思った。それが何より苛立った。だから桜の所に行った。矛盾した思考が生み出した行動だった。
その行動に、現実は答えを与える。
「1番、って、良いと思わねぇ?」
「え…」
背後から聞こえた声に足が止まる。
薄闇に向き直る。
派手な男が、声からイメージした通りの堂々とした様子で立っていた。
黒の着物、金刺繍で所々に桜、赤い裏地。場違いなほど自信に溢れた笑顔。
傾奇者という単語が浮かぶ。
(状況から考えるに桜か)
乙女は分析力だけ働かせて男を見た。精神は既に役割を放棄し始めていた。
「まだ誰も手ー付けてねぇ。俺は桜の中で、お前は5人の中で1番目だ」
扇子を開く音が、風と場を裂いた。