星座で801ログ保管庫出張所

やぎの夏休み

 駅から三十分も自家用車を飛ばすうちに外の景色はみるみる青い山間のそれへと変わっていった。お盆時ということもあって峠道を走る車は一台だけではない。
 その中に、ある親子の車があった。

 山羊は小学校が夏休みに入るなり、父親の双子から自分が夏休みの間この川田地方に預けられるときかされた。観光地に近い山奥の神社に伯父の乙女が生活しているのだという。
 何度も急カーブを曲がる自家用車の窓から外を見ると、遠く果てまで傾斜のきつい山々が新緑の稜線を晒す。自分の足では歩いて都会に帰れないなというのが山羊の最初の感想だった。こんな逃げられない山奥に自分一人預けられて、まるでこれから孤児になるような気分だ。
「いい景色だろ。窓開けてごらん。車の中より涼しいんじゃないか」
「……お父さんは乙女おじさんのところ、泊まらないの?」
「お父さんは仕事が入っちゃったからなあ。ごめんな」
 ラジオから流行の音楽を流して軽く謝る姿。父さんは不便で退屈なのが何よりも嫌いだから、絶対に山奥でなんか暮らせやしないと山羊は思う。大人は卑怯だ。もう捨てられるんだからどうだっていいんだけれども。
 山羊の母親が仕事で遠くへ行ってしまった後、学校でめっきり何もしゃべらなくなってしまった山羊に双子はほとほと手を焼いた。問題児のくせに山羊はいつもうつむいて生気がなかった。しゃべったってどうせ母親は帰ってこないし父親はまるで心配してくれないし本気で嫌になったのだった。
 挙句、これだ。
 道路沿いにまばらに観光みやげの店が出てきて、車は大きな神社脇の駐車場に止まった。観光客がいてもなお静けさが漂う。山羊は生い茂る杉林をうんと見上げ、草木の吐いた涼やかな息を胸の中に吸い込んで神社の石段を登っていく。背負ったリュックサックが重くて途中で転びそうだった。ボストンバックとみやげの紙袋を提げた双子も石段を登る途中でふうふう言っていた。
 階段を登りきると、観光客にまぎれて作務衣を着た古風な眼鏡の男が親子を出迎える。双子は汗を拭きながら手をあげて懐かしそうな声をあげた。
「兄貴。久しぶり」
 ”乙女おじさん”は微笑を浮かべると軽く手で挨拶を返す。山羊が「こんにちは」と声を出してぺこりと頭をあげると、「こんにちは」という律儀な挨拶が返ってきた。ちゃんと山羊の目を見ている。思ったよりも声が高めなのは父親の双子に似ていると思った。
「久しぶりだな。一ヵ月預かればいいのか」
「悪い。俺だけだとちゃんと面倒見切れるか不安だったから……頼むわ」
 これから、捨てられるのに、山羊は近くの苔むした石灯籠を眺めて平気そうな面をしていた。死んでも父親に「帰りたい」なんて言うものか。無駄なんだから。全部諦めてここでやっていくしかないじゃないか。建物の中に入って双子と乙女が居間で長話をしている間も山羊はふてぶてしい顔で神社の廊下をぺたぺた歩いていた。神社の外はまだ昼時で、外の境内には都会では信じられないほど大きなオニヤンマが飛んでいた。
「すげー。トンボでかい」
 独り言。誰も聞いてない場所でも誰かが聞いて返事をしてくれるかもしれないから、つい独り言が多くなる。
 トンボが宙を滑って進むので山羊はそれを追いかけて廊下を忍び足で進んでいった。絶対に戻ったら父親も帰ってしまって消えている。と思う。予想を打ち消すように廊下を進んでいく。トンボは隣のみやげ屋の上へと高度を上げ、みっしり分厚いかやぶき屋根の周囲を飛びまわる。太陽が眩しかった。山羊は初めて見るかやぶき屋根をじっと見つめ、あの層をなしているものは藁《わら》だろうかと思いをめぐらせた。
「古いなあ。雨降ったらかびそう。雨漏りしそうだなあ」


 みっしりしたかやぶき屋根の萱《かや》の隙間に、何か黒いものが”にょろり”とうごめいた。
 山羊はびっくりしたのを声に出すことができなかった。目を丸くして、喉をこわばらせてじっとその場に棒立ちになっていると、黒い蛇のようなものが萱の隙間から出てきてまた隙間へと戻る。
「………。」
 汗が垂れる。こめかみが冷えた。”それ”が今にも何かを喋りそうな気がして、山羊は辺りが静かになるとそっと後じさりした。数メートル離れてから一気に走りだして夢中で双子と乙女のいる居間まで戻っていた。
 双子と乙女はまだ揃ってしみじみと話をしていた。たぶん山羊のことを。肝心の山羊は、そんな話題だとはちっとも思っていなかったが。息を弾ませて転がり込んできた山羊を双子が何事かと見やった。
「どうした? なんかいたか?」
「……!」
 山羊はしばらく身振り手振りで伝えようと両手をわたわたさせた揚句、急に大声で叫んだ。
「なんかいたーーー!!」
 軽く眉をひそめるだけで大事に受け取りそうにもない双子の後ろで、乙女が口をつけていた湯呑をテーブルに置いた。
「いろんなものがいるぞ。都会っ子には面白いのかな。まあゆっくりしていきなさい」

 明朗で穏やかな声とともに乙女が山羊の頭を撫でる。
 山羊はもう一度乙女おじさんの顔を見つめる。作務衣のおじさんは、これまで山羊が胸にためこんできた混乱をひといきに受け流すような優しい目をしていた。
 山羊の夏休みはこうして始まったのだった。